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レオナルド・ダ・ヴィンチ(後編)【万能の天才 レオナルド・ダ・ヴィンチを語りつくす(後編)】「アンギアーリの戦い」から「モナリザ」「サルバトール・ムンディ」

こんにちはとむです。

レオナルド・ダ・ヴィンチの後半です。
後半のポイントは3つです。

1つ目は「幻の大作『アンギアーリの戦い』ってどんな絵だったの?」
2つ目は「いまさら聞けない、モナリザ鑑賞法」
3つ目は「過去最高額『サルバトール・ムンディ』」
そして、おまけは2つ
「レオナルドの貴婦人3選」と
「レオナルドと仲が悪かった?ミケランジェロとの関係」です。

「最後の晩餐」の仕事を終えたレオナルドは、その後ヴェネチアなどを回ってフィレンツェに戻ってきます。1502年にはチェーザレ・ボルジアの軍事土木技師として雇われています。
1503年大きな仕事が舞い込みます。
フィレンツェ政府から、市庁舎の大会議場の壁に「アンギアーリの戦い」を描いてほしいというものです。

アンギアーリの戦いとは、フィレンツェ共和国がミラノ公国との戦争で勝利した戦いです。まさにフィレンツェの栄光の場面です。大きさも半端ないです。
縦7m 横17.5m
しかも、向かい側の壁にはミケランジェロによる「カッシーナの戦い」が描かれるというのです。
ルネサンス2大スター夢の共演です。

レオナルドはサンタ・マリア・ノヴェッラ教会の一室で、下絵の準備を始めます。
しかし、この絵は完成には至りません。最後の晩餐の反省を生かして、レオナルドはテンペラを捨て油絵の具で仕上げようとしました。しかし、またもや絵の具が壁となじまないのです。絵の具が定着せずに流れ落ちてしまうという事態になります。
しかも、レオナルドは自分の否を認めません。こんな手記が残っています。

「最初の一筆を下ろそうとすると、天候が悪くなった。人々を集める鐘が鳴って、画稿は破れ、水が流れた。かくのごとく急激に天候が悪くなり、夕方まで土砂降りの雨が振り、まるで夜のようだった」

つまり、レオナルドは、失敗を天候のせいにしてしまったのです。

レオナルドは「アンギアーリの戦い」を早々に諦めて、ミラノに行ってしまいます。これにはフィレンツェ政府もカンカンに怒りました。司政長官のソデリーニは「彼は義務を遂行していない、かなりの金を受け取りながら、作業は少ししか進んでいない」と書いています。

「アンギアーリの戦い」は完成しませんでしたが、下絵は多くの画家に模倣されました。それらから、レオナルドの「アンギアーリの戦い」がどんな構想だったのかを推察することができます。
その中でも特に素晴らしいのがバロックの画家ルーベンスが描いた模倣です。
レオナルドの筆致とはかなり違いますが、実現していればこんなような絵が大会議室の壁を飾っていたのだと想像すると、もったいないような気もしますね。

完成しなかった「アンギアーリの戦い」の上には別の画家が違う絵を描いています。研究者の中にはこの絵の下にレオナルドの未完の「アンギアーリの戦い」が今でも残っているんじゃないかという人もいるそうです。そうならば、見てみたいものですね。

2つ目です「いまさら聞けない、モナリザ鑑賞法」です。

「モナリザ」はいわずとしれた人類の至宝です。絵画史上最も有名な絵画と言って過言はないでしょう。現在はルーブル美術館にあって、防弾ガラスのケースに入れられていて、警備員も配置される別格の扱いを受けている絵画です。
では、モナリザは何が素晴らしいの? と言われた時に答えられるように、今回は鑑賞ポイントを話していきたいと思います。

鑑賞ポイントは5つです
「革命的技法スフマートについて」
「モナリザの微笑ってなに?」
「モデルは誰なの?」
「どうしてフランスにあるの?」
「そもそも本物なの?」です。

1つ目「革命的技法スフマートについて」です。
皆さんは例えば、りんごを描く時にどんな描き方をしますか?
まずりんごの輪郭線を描いてそれから赤い部分を塗る。一般的な手順だと思います。
しかし、よく考えてみて下さい。世の中に輪郭線なんてものが存在するでしょうか?
僕らが輪郭線だと思っている線は、実際には存在しなくて、ただそこで形が終わっているだけなのです。レオナルド以前の絵画は背景とモチーフを分離するために輪郭線が描かれることが多かったのです。
しかしこの描き方だと、人物は塗り絵の枠のような線の中に収められてしまいますので、自然な空間を表現をするには邪魔だったのです。
そこでレオナルドは輪郭線を排除して、背景との境界をぼかして表現します。
これがいわゆる「スフマート技法」なのです。
このことで、人物はより存在感をまして、画面の中にいられるようになったのです。
 「モナリザ」はこのスフマート技法によって描かれています。だから、自然な存在感で我々に微笑みかけてくるのでしょう。

2つ目です「モナリザの微笑ってなに?」です。
この言葉はよく聞きますよね。じゃあ、普通の微笑みと、モナリザの微笑は何が違うのでしょうか?
まず、モナリザを見てみましょう。
確かに微かに笑っているように見えますよね。でも、この微笑みってなんだかゾワゾワする笑いじゃありませんか?
笑っているようで笑っていないような。
どうしてこんなふうに見えるのかを解説します。
それはモナリザの顔の右側と左側で表情が違うからです。
では、左側を隠して右側だけの表情を見てみましょう。これは口角が上がって笑っているように見えますよね。
では今度は右を隠して左側だけを見てみましょう。
これは笑っているようには見えませんね。なんだかモナリザの内側の顔を見たような気になります。
つまり、左右で違う表情を描いている。これがモナリザの微笑の秘密なのです。
また、右側の顔は少し女性的に見えるという人もいます。逆に左側は男性的だといわれます。
ヴェロッキオ工房で描いた天使のときにも説明しましたが、レオナルドの絵画にはこういった2面性が表現されることが多いです。このことで、より複雑な感情を見ているものに抱かせることができるのです。

3つ目「モデルは誰なの?」です。

モナリザのモデルには多くの候補がいます。
一人目は「フランチェスコ・デ・ジョコンドの妻、リザ・デル・ジョコンド」です。
「モナ・リザ」というタイトルの意味は「マドンナ・リザ」の短縮形なのです。日本語にすると「貴婦人リザ」とでもいうのでしょうか。
そして、モナリザにもう一つの名前があります。「ラ・ジョコンダ」といいます。これはレオナルドが死ぬ間際に弟子にこの絵を与える際につけたタイトルです。ジョコンダがジョコンド家のことと考えればまさにリザ・デル・ジョコンドがモデルという説が一番有力と言ってもいいでしょう。

2人目はイザベラ・デステです。
イザベラはデステ家出身の女性でマントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガと結婚しました。芸術を庇護して最先端のファッションで時代を牽引した女性です。
イザベラはレオナルドに肖像画を依頼しています。しかし、残っているのは横顔のドローイングだけです。でも、服のイメージや髪型、どことなくモナリザっぽい感じがしませんか。モデルの候補として十分存在感を持っていると思います。

3人目「自画像説」
モナリザはレオナルド自身の自画像だという説はよくいわれています。
その裏付けとなるのは有名な自画像の素描を反転してモナリザと重ねると、骨格が一致するというものです。さらに、モナリザの左目の目頭の脇にホクロのようなイボのようなものがあります。レオナルドの自画像にも似たようなものが存在します。こういった一致によって、自画像説を取る研究者もいます。

4人目「モデルはいない。理想化された人物像」
モナリザは最終的に依頼者の手に渡っていません。レオナルドは終生モナリザに手を入れ続けたといわれています。ということは、最初はモデルを見て描いていたかもしれませんが、後半は見ていないのです。そういった中で、修正を加えていくと、どうしても頭の中にある理想に近づいていくのは必然なのではないでしょうか。

その他
モナリザのモデル候補は他にもいます。有名なところだけを数えても10人くらいはいます。
そういった「モデルはだれだ」論争も、この絵が魅力的だから巻き起こるものだと思います。

どうして、フランスにあるの?レオナルドはイタリア人だよね。
これは、先程も言いました。レオナルドは終生この絵を持ち歩いています。そして死ぬ間際まで加筆を続けています。
晩年レオナルドはフランスのフランソワ1世に招かれてアンボワーズ城で息を引き取るのです。
つまり、レオナルドがフランスで亡くなった時にモナリザを持っていたから。これがフランスにモナリザがある理由です。

「そもそも本物なの?」
え? 偽物って可能性もあるの?
あります。
モナリザが本物だという保証は実はないのです。どういうことでしょうか。

1911年8月21日、モナリザはルーブル美術館から持ち去られ、盗難にあっているのです。しかも盗難に気づいたのはその翌日だったというから驚きですね。
このことで詩人のアポリネールに嫌疑がかけられて逮捕されます、その友人だったピカソも警察に連行されたそうです。後にこの二人は嫌疑が晴れて釈放されています。
犯人はイタリア人、ビンセンツォ・ペルージャでした。ルーブルの開館中に入り込んで清掃道具入れに隠れていて、閉館後にコートに下にモナリザを隠して逃走したそうです。動機はモナリザをイタリアに持ち帰りたかったというものでした。イタリア人にはモナリザはイタリアのものだという思いがあるようですね。ビンセンツォがモナリザをウフィツィ美術館に売ろうとしたところを逮捕されたそうです。
しかし、ビンセンツォはモナリザをイタリアに持ち帰ろうとした英雄として6ヶ月の投獄で出てきたそうです。

さて、この時に帰ってきたモナリザは果たして本物なのでしょうか?
モナリザの本物が手に入るのなら、いくらでも出すという人はいるでしょう。もしこの時に本物と偽物がすげ変わっていたとします。そして、既に熱狂的なコレクターのもとに本物のモナリザがあって、ルーブルに返されたのは偽物だったとしたら。自分が本物を持っているなんてことは絶対にいわないでしょう。そして、我々は偽物のモナリザをありがたがって見ているなんてことが、ないとも言えないのです。

さらに、モナリザって複数枚あるってご存知でしたか?

例えばこれは「アイルワースのモナ・リザ」といわれるもう一つのモナリザです。
ルーブルのモナリザを見慣れている我々は、少し若いモナリザを見て、おそらくこれは偽物だと思うでしょう。では、こちらの素描を見て下さい。
これはレオナルドと同時代の画家、ラファエロが描いたモナリザの模写と言われています。
ルーブルのモナリザよりアイルワースのモナ・リザのほうが、雰囲気が似ていると思いませんか?
さらに、ラファエロの素描に描かれている柱は、ルーブル版には描かれていないのに、アイルワース版には描かれています。
ラファエロがレオナルドのモナリザに忠実に模写していたのだとしたら、どちらが本物の可能性が高いでしょうか?
モナリザは500年前の絵画です。長い歴史の中で、どこかで入れ変わってもなんの不思議はないのです。

3つ目は「過去最高額『サルバトール・ムンディ』」です。
2017年美術界に衝撃的なニュースが飛び込んできました。
レオナルド・ダ・ヴィンチの真作が発見されて、クリスティーズのオークションで、過去最高額4億5031万2500ドル(日本円で508億円)で落札されたというのです。
この金額は今までの絵画取引の中で最高額です。
絵のタイトルは「サルバトール・ムンディ」レオナルド・ダ・ヴィンチの真筆です。

この絵は1500年頃に描かれた肖像画で、1763年に行方不明になっています。
その後1953年にオークションに出品されますが、レオナルドの作品とは分からず、小額で落札されています。
その後、レオナルドの真筆だという鑑定を受けて2017年にクリスティーズのオークションに出品されたのです。

「サルバトール・ムンディ」とは世界の救世主という意味です。
現在はサウジアラビアの王室と、アラブ首長国連邦が所有しているようですが詳しい所蔵先は明らかにされていません。

こうやって話していると、値段のことばかりが取り沙汰されますが、実際は絵も素晴らしいと思います。
顔はいささか明瞭ではない感じはしますが、レオナルドの特徴である髪の毛のウェーブは健在ですし、服のひだも水の流れように美しいですね。
とりわけ、手の表現が素晴らしいと思います。
絵画の値段は手をどれだけ精巧に描くかによって決まった時代があったそうです。
この絵の手の表現は緻密で最高品質です。レオナルドの力量を存分に感じられますね。
さらに、左手に持つ水晶の表現もいいですね。水晶越しに見る手がレンズ効果で拡大されて見える様子も見事に表現されています。

早く、一般公開してほしいものです。

では、おまけコーナーです。

1つ目は「美しい貴婦人3選」
レオナルドの描いた女性の肖像画を3点紹介していきたいと思います。

一人目は「ミラノの貴婦人」です。
この肖像画のモデルはわかっていません。
レオナルドの筆ではないのではないかという説もあります。
しかしながら、キリッと強い眼光でこちらを見ている目は吸い込まれそうな魅力にあふれていますね。
また、衣装も見どころだと思います。当時の最先端のファッションが分かり、洋服の布の質感までも伝わってきますね。歴史的資料としても素晴らしいともいます。
美しいですね。

二人目は「白貂を抱く貴婦人」です。
モデルはミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの愛妾だったチェチーリア・ガッレラーニといわれています。
「ミラノの貴婦人」より優しく柔らかな印象がありますね。魅力的な視線の先に何を見ているのでしょうか、貂の毛並みの細かさも見どころのひとつだと思います。
この作品も、かなり修復の手が入っているといわれています。背景の黒は後の世に塗られたようです。
それでも、レオナルドの数少ない作品の中でこれだけ良い状態で残っているのは素晴らしいと思います。また、衣装も左右で異なるデザインで、とてもおしゃれです。

三人目は「ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像」です。
他の二人の肖像に比べると、少し硬い印象があります。顔色も白く、現代の感覚からすると、少しきつそうな感じがして、近寄りがたいですよね。
しかし、ジネーヴラ・デ・ベンチは当時のフィレンツェで評判の美人でした。メディチ家の主催する文芸サークルにも出入りしていることから、知的な女性だったということが想像でできます。冷たそうに見える表情も知性の表れと解釈することはできないでしょうか。
この絵は下半分が切断されているといわれています。オリジナルではジネーヴラ・デ・ベンチの腕が描かれていたといわれています。どんな腕だったのか、いまだに議論がやみません。


最後は「レオナルドと仲が悪かった?ミケランジェロとの関係」です。

レオナルドはミケランジェロの23歳年上になります。
まず、同時代の同じ場所に世紀の大天才が二人も居合わせることだけでも奇跡的なことだと思いますが、このあと、さらにラファエロという天才も現れます。
ルネサンス時代は天才の大放出時代ですね。

しばしばこの二人は仲が悪かったなどといわれることがあります。
それを物語るエピソードはいくつか残っています。
まず、レオナルドの言葉にミケランジェロが噛み付いたというのがあります。
ある芸術論のかなでレオナルドはこんなことを言っています「絵画こそ最高の芸術だ、彫刻や文字はマイナーな存在に過ぎない」
この言葉に、自分は彫刻家だと自負するミケランジェロは激怒したといわれています。

そんな二人の確執を決定づけたのは「ダヴィデ」の設置場所問題です。
ミケランジェロの作ったあの有名な「ダヴィデ」の設置場所をミケランジェロは人々の目につく市庁舎の前に設置するべきだと主張します。
それに対してレオナルドは屋根のある場所に設置するべきだと言います。完全に意見が対立します。
大理石は長年風雨にさらされると痛みが進行します。ミケランジェロの素晴らしい作品を風雨から守りたいという思いがレオナルドにはあったのでしょうが、ミケランジェロには受け入れられなかったのでしょう。
結局ミケランジェロが意見を押し通して、市庁舎の前に設置されることになったのです。

現在フィレンツェの市庁舎の前に設置してある「ダヴィデ」はレプリカです。本物はアカデミア美術館で見ることができます。

仲が悪かったというエピソードは、面白いですが、必ずしもそうではなかったとも言えます。

フィレンツェの第会議室の壁画を二人で描くときに、戦いの場面を描こうとするレオナルドの絵を邪魔しないように、ミケランジェロの「カッシーナの戦い」は、戦闘シーンは描かれていません。
ミケランジェロなりに先輩に気を使っていたのかもしれません。

ちなみに、レオナルド・ダ・ヴィンチのことを省略して呼ぶ時は「レオナルド」と言いましょう。
ダ・ヴィンチだと、「ヴィンチ村の!」と言ってるだけで、何のことか分かりません。

いかがでしたか?

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それではアートで豊かな人生を

とむでした。


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