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「自分らしさ」の曖昧さに気づいた、原付きにはじめて乗った日の話。

原付きデビュー当日。

今日は自転車でバイク屋さんには行けない。バスでバイク屋さんに行き、原付きで家に帰るのだ。

ドキドキしながらバスに乗って、バイク屋さんに向かった。

いつもなら電車やバスの中ではスマホを見ているけれど、今日はスマホを見ようなんて気持ちになれない。そんな時間があるのなら、帰りに自分が通る道を予習しておかないと。

バスの窓にはりつくようにして、ずっと道路の様子を凝視していた。


171号線という大通り。

たくさんの車がビュンビュン風をきって走っている。

帰りは、購入した原付きに乗って。この171号線の流れに乗らなければならない。


心臓がバクバクしている。



遊園地にあそびにいって、怖いのなら断ればいいのに、友達に流されてジェットコースターの列に並んでいるとき。自分のあとにどんどん人が並んでもう引き返せず、どんどん前に押し出されていく、あの感覚に似ている。


私は原付きを購入したのだ。
もう引き返せない。
いざ!


怖いけれどもう行くしかなくて。


バスを降りて、少し歩いて、バイク屋さんに着いた。



・・・と、そこまでは「自分らしい」感じだったのだ。ビビリで怖がりな、いつも通りの私。


今日はそこからが「自分らしく」なかった。



私は予想外に、すんなりと原付きデビューを果たしたのだ。



バイク屋のおじちゃんに、まずはバイク屋の駐車場で基本的な操作を教えてもらった。案外スムーズに乗れた感覚があった上に、「梅川さん、運転のセンスあるわ〜!はじめて乗るとは思われへんわ〜!」とおだてられて、ますますいい気分になる。

そのあとおじちゃんのあとについて、バイク屋さんの近所をグルグル走った。私の人生はじめてのツーリング相手は"バイク屋のおじちゃん"となった。たのしかった。

手続きとおしゃべりも込みで2時間くらいの手ほどきを受けて、私はすんなりと171号線に羽ばたいていった。無事、原付きに乗って家に帰ることができたのだ。

もちろん怖さが全くないといったら嘘になるけれど、それよりも"楽しさ"の方がだいぶ勝っていた。

家に着いたのに、まだまだ原付きに乗っていたくてウズウズした。いてもたってもいられなくなって、昼ごはんを飲み込むように食べて、また原付きにまたがった。明日からの通勤の予習もかねて、仕事場まで走り、その付近にあるスターバックスでラテを飲んで、また家まで走った。

それでもまだまだ乗り足りなくて、早く明日にならないかな、と思った。




拍子抜けした。

こんな展開「自分らしくない」と思った。


ビビリの私が171号線の車の流れに、普通に乗れた。エンジンをかけたときのあの"音"と"お尻への振動"に妙な興奮を覚えた。30キロの速さで風をきって走り、それをたのしいと感じている。


なんの問題もない。
むしろ、楽しくてよかったじゃないか!


そう思うんだけれど、「自分らしくない展開」になぜか戸惑った。


逆に、「自分らしい展開」ってどんなかんじなんだろう。

「こわいこわいこわーい!」と心の中で叫びながら、道路の左側のキワキワをノロノロと走って、後ろの車に追い抜かされるたびにビクッとして。なんとか家に戻って原付きから降りると手が震えていて。


そんな展開の方が「自分らしい」と感じている自分に気がついた。





だいたいこういう展開になるだろう。
だいたいこういうパターンになるだろう。


33歳くらいになると、ある程度の「自分データ」がたまっているので、今後の展開やパターンがおおよそ予想しやすくなっているものだ。いつも通りの展開やパターンになると、それが望んでいることではないにしても、「やっぱりそうなったよね」ってなぜか"安心"したりする。


私はいつもビビリで怖がりで、何かしら"やらかして"しまうことが多かった。


大学生のときに友達と"夜のクラブデビュー"をしようと約束していたのに、当日急に怖くなってドタキャンしてしまったこともあるし、

行きたいお店の前まで行ったのに、入りづらい雰囲気&店員さんのしかめっつらに負けて、その店に入らずに帰ってきてしまったこともあるし、

東京にいる友達に会うために1人で夜行バスに乗ったとき、パーキングエリアでのんびりコーヒーを飲んで戻ったら、夜行バスはすでに発車してしまっていて、置いてけぼりをくらったことだってある。


それ以外にも、数え切れないほどの出来事。忘れてしまっているように思えても、消去されずにストックされているデータたち。

33年間積み上げてきたそれらすべての「自分データ」を総合して、「私はビビリで怖がりで、いつもなにかしらやらかしてしまう」という「自分らしさ」を築き上げてきたけれど。



今日の私はなんだか勇敢で、
スムーズで、軽やかで、楽しい。


いつもとちがう自分が急にヒョコっと顔を出して、「自分らしさ」の曖昧さを感じた。


まだまだ自分の知らない自分が、これから顔を出してくれるかもしれない。それならば、今見えている「自分らしさ」なんて参考程度のものなのかもしれない。


「ビビリで怖がりで、いつもなにかしらやらかしてしまう人」なんて、自分で「自分らしさ」を勝手に決めつけて、勝手に分類して、自分を縛ってしまうのはやめたいと、ふと思った。


私はビビリで怖がりなところがあるけれど、今日みたいに勇敢なときだってある。やらかしてしまうこともあるけれど、今日みたいにスムーズにいくときだってあるのだ。


よくよく思い出してみると、私はいつでもどこでもビビリで怖がりだったわけではなかった。勇敢な日もあったし、スムーズにいった日だって、たくさんあったじゃないか。






原付きをマンションの下に停めて、そのまま自転車に乗り換えて、息子を幼稚園に迎えに行った。慣れきっていた自転車なのに、なんだかフラフラした。異様にスピードがおそく感じられる。じれったかった。



「母ちゃん、バイク買ってん。自転車おそっ!もっとスピード出えへんかなぁ!」



ちょっぴり得意げにそんなことを言いながら、171号線沿いを自転車で、いつもより速くペダルをこいで爆走した。今度は息子と一緒に。


「母ちゃん、はやっ!きゃっほー!」


息子はケラケラ笑っている。



マンションの駐輪場に着いて自転車をおりると、「母ちゃんのバイク見たい!」と息子が言ったので、見せてあげた。


「母ちゃん、こんなバイク乗れるの?
母ちゃん、かっこいい!!」


エンジンのかかっていない原付きバイクの椅子に腰かけて、ハンドルをギュッと握りながら、息子はそう言った。





「かっこいい」

物心のついた頃から「癒やし系」とか「天然」とか言われてきた私には無縁のホメ言葉だった。

でもきっと、ヘルメットをかぶって、アクセルを回すと同時に鳴り響くブオーンという音と共に、30キロのスピードを出して171号線の流れに乗る、そんな自分を私は今"かっこいい"と思っていて。

だから、その息子の言葉がうれしかった。




その日の夜、コンビニアルバイトにも原付きで向かった。

コンビニに着いてすぐ、入れ替わりのときにいつも会うKくんにウキウキしながら言った。


「今日はじめて原付きで来てん。原付き乗るのたのしすぎる!Kくんは、原付き乗るの?」


「高校生の頃は乗ってて、乗り始めたときはたのしかったけど。だんだん"ただの足"になっていって、今は車の方が楽っス。」


Kくんにとって原付きは、今やただの「乗り物」のようだった。


ちょっぴりヤンチャしてたKくんにとっては、原付きなんか「普通」なんだろうけれど。引っ込み思案で、その上門限が厳しい家で育った私にとっては、夜のコンビニでタムロするのも、バイクでブイブイするのも、未知過ぎてかっこよく感じるんだよ。


そんなことを心の中で思った。



でも、人がどう思うかは置いておいて、自分で自分を"かっこいい"と思えるのは何だか気持ちがよくて。


コンビニの前でギャハハハと笑いながらチマチマとお菓子やら飲み物を買っていく大学生の大きな声も、

いつもうるさく感じていた171号線を爆走する暴走族のバイクの音さえも、


今日は不思議と心地よく感じる。



もしかしたら私も高校生や大学生の頃、「ちょっぴり不良っぽくて、なんだか楽しそうなこと」をやりたかったのかもしれないなと思った。コンビニでタムロするのも、原付きに乗るのも、当時の私のキャラからすると「自分らしく」ないけれど。


それから10年以上も月日が流れてしまったけれど、今や夜のコンビニでタムロするどころか定期的に働いているし、原付きにも乗りはじめた。今や私は、もう彼らや彼女らに嫉妬する理由なんてない。


自分の思う「自分らしさ」を守るために、やりたいことをがまんするのはもうやめて。心が動くのを止めようとしたり、心の動く方向をねじ曲げるのはもうやめて。

人からそう見られているであろう「自分のイメージ」から外れてしまわない範囲の中で生きていくのはもうやめて。


やりたいな
おもしろそうだな
かっこいいな
可愛いな
知りたいな
行きたいな

って心が動くことを毎日選んでいけたら、どんなに楽しいだろう。もしこの瞬間からできる限りそうしたとしたら、たとえば1年後、私はどんな「自分らしさ」を持った人になっているんだろう。


「ビビリで怖がりで、いつもなにかしらやらかしてしまう人」とか「癒やし系」とか「天然」とか、そんな簡単な言葉で表せるほど、私はシンプルにできていないのだ。

人の数だけ「らしさ」があるのなら、そんな簡単な言葉になるはずがない。

そういうときもあるけれど、そうじゃないときもあるし、そういう一面もあるけれど、そうじゃない一面もある。

一言で言い表せない自分。複雑でややこしくて一筋縄ではいかないけれど、だからこそ"人間という生き物"はおもしろいなと思うのだ。



「簡単に分類されてたまるか!」

そう叫びたくなった。叫ばなかったけれど。




33歳。

33年間で築き上げてきた「自分らしさ」が、崩れていく音がした。

ガラガラと。案外簡単に。





ちなみに、原付きの名前は直感で「くみこ」に決まった。くみこっぽい顔をしていた。ただそれだけで決めた名前だ。

私のnoteでおそらくこれからチョイチョイ登場すると思うので、以後お見知りおきを♪



長文、最後まで読んでいただきありがとうございました\(^o^)/


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