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写真の楽しさと売れる喜び 写真家の祖父

音楽家は無趣味な人も多いが、自分は割と趣味がある方だ。文章を書くことや読書などはいつも書いている通りだが、写真を撮るのもそのうちの1つ。ロシアにはカメラを持ってこられなかったからiPhoneで撮るしかないのだがそれでも楽しい。

写真家の祖父

もしかしたら小さい頃に他界した祖父が写真家だった影響も少なからずあるのかもしれない。祖父は鎌倉の小町通りのド真ん中に「登美太郎の店」という自分の名前を店名にした巨大な看板を掲げていた。

祖父は20歳で徴兵されスマトラ島から生還し戦後の小町通りを盛り上げていった人だったのだそうだ。祖母と同居していたからよく話を聞いた。2歳半の時に亡くなってしまったからほとんど何も覚えていないが、みんなは怖がっていたけど自分は全然怖がらなかったという気がする。それが本当の記憶なのか後からビデオで見て作られた記憶なのかはわからない。

そんなこともあり子どもの頃から「写真を撮る」ということはなんとなく親近感のあるものだった。

写真の楽しさ

3年前バルセロナに行くときにカメラを買ってひたすら写真を撮り続けた。観光地にカメラを首から下げていくのは少し恥ずかしかったし重たかったが、とても楽しくて充実したものになった。iPhoneはもうコンパクトデジカメよりもずっといい写真が簡単に撮れるが、やはりズームは違う。

そうして写真を撮るうちに人の写真を撮るのが一番楽しいことに気が付いた。構えられているのもそうだし、表情を引き出していい瞬間を撮れた時は他にない喜びがある。そして撮った人に心から喜ばれるととてもやりがいを感じる。

やはり幸福感は人に喜ばれることによって生まれるという話は嘘ではないようで、それによってお金がもらえるかもらえないかは幸福度に関係しているわけではないようだ。それは演奏を聴いてもらうことに近い。

自分がいい演奏をできて人が喜んでくれる場合、それが大学の中のおさらい会のような無料のコンサートでもとてもうれしいわけだ。

ということは結局は「それによってお金を得る」ことをゴールにすることが幸せに結びつくのかは疑問になってくるわけである。

売れるとうれしい

今言っていたことと逆を言うようだが、自分がWeb上で出品した写真が売れるのはとてもうれしい。noteでサポートをもらえるのもうれしいがそのような感覚だ。

自分が出しているものに大して能動的にお金を出してくれるということは、直接価値を認めてもらえていると感じるからなのかもしれない。

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気が向いたときにSnapmartというアプリで写真を出品しているのだが、何度か売れたことがある。今日はなんとトランペットの写真が売れた。

そこまで超おしゃれという写真でもない気もするが、購入してもらえたことはとてもうれしい。

よく考えてみれば、自分が一番好きなものだからどんなアングルや映し方が一番美しいかを研究することも苦にならない。それに普通たくさんのトランペットを持っている人などそうそういないわけだから、トランペットのかっこいいおしゃれな写真を撮りまくってみるのも楽しいかもしれない。

音楽家は自分の楽器をいかにかっこよく撮れるか試したら何時間でも遊べるかも。

ブログにしろ写真にしろ、専門外でもお金を稼ぐ手段がどんどん増えていく社会になっているのだなと感じる。

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