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写真を撮るようになって。(後編)

写真を撮るようになって、
昔のことを思い出す機会ができた。
特に、祖父にまつわること。

僕の祖父は写真を撮るのが好きな人だった。
子どもの頃、一緒に写真を撮りに行った記憶が残っている。

一緒に、とは言っても僕はただついて行っただけで、
夏休みにどこかしらの山に風景を撮りに行ったときは、ただ自然の中で遊んでいたし、
どこかの初日の出を撮りに行ったときはとにかく寒くてただブルブル震えていた、ような気がする。

ぼんやりとした思い出。

祖父のおかげで、
テレビとゲーム好き坊主の僕も色んなところに行って、
何かを見て、聞いて、感じて、体験を得ていたのだと思う。

それから、祖父は暮らしの中でのものづくりが得意な人だった。学校から帰ってきたら家の縁側が広くなっていたり、棚が出来ていて僕の好きな本が整理されていたり。日常の中に、ワクワクすることを作ってくれた。
決して大げさでないものも含めて、色んなものを作ってくれた。たまに、一緒に作ることもしていたと思う。
多分、僕はそういう祖父の姿に憧れを持っていた。


そんな祖父は今年の春に亡くなった。
大好きな祖父が亡くなったのは悲しいし、
いまだに受け入れられているのかというと微妙なところもある。
その後、遺品の整理があった。
僕は行けなかったけれど、後日母が祖父の形見を送ってくれた。

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カメラとアルバム。
カメラに関しては、
記憶を辿ってもこれを使ってるシーンをほとんど覚えていなくて、
初見に近い印象。
使い方もわからんな。


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アルバムには、祖父が撮った写真がおさめられていた。
見ていたら、自分が撮った写真じゃないのに、自分が撮ったような気がした。

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これ、自分も撮りそうというか。似たような感覚があるってことなのかな。不思議だ。

自分の中に、祖父がいるような気がして嬉しくなった。


そして、思ってみれば、僕がいまやっているものづくりだって、祖父のくれたものの影響が大きい。
色んなものを作ってみたくなってしまうのは、多分そういうことだ。
なんでも作ってくれて、それで人を喜ばせたり楽しませたりすることの実体験があったから。


それに気づいてからは、
悲しくて実感がないのはまだ変わらないけど、寂しいという感覚はなくなったように思う。

そして、なんか不思議なものでいまの自分を前より好きになったと思う。


ほんの少しだけ、自分のこともよく見えるようになった、
写真を撮るようになって。

おしまい。