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第一話:灯す屋ができるまで ③社会人・ボランティア編

2008年、わたしは大学院を修了し、子どもの頃から夢だった薬の研究者になりました。
しかし、カンボジアと国連大学で多大なインパクトを受けていたわたしは、入社して1年経った頃から「そろそろ国際協力のこともやりはじめたいな」と思って色々と動き始めていました。

そして、『JHP・学校をつくる会』(東京・田町)という、カンボジアに学校をつくったり教育支援したりという活動を行っているNPO法人に出会います。

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その団体が当時開催していた、「国際ボランティア・カレッジ」(2016年閉講)という学びの場に参加。ここで半年間、仕事の後や休日に埼玉から約1時間かけて通って学ぶという生活を続けました。

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そして、最後は受講者みんなでカンボジアへ。
わたしはなんとか会社から5日ほどの休みをもらって人生2度目のカンボジアへ行き、小学校の校庭にブランコを建てる(重機使わず人力で!)作業を行いました。

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朝めちゃ早く起きてハイエースに乗り込み、未舗装の悪路に約2時間揺られながら現場へ。
そして、夜中までひたすら柱を立てるための穴掘り。43度くらいの気温の中で、いい大人たちが必死で汗をかく。
どんだけの意味があったのか分かんないけど、終わった後のビールが毎日最高に美味すぎて。「あ、俺このビールが飲めるなら世界のどこ行っても暮らしていけるな」と気づきます。

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↑ 贈呈式で踊ったソーラン節。この頃は青春ど真ん中で生きてました。

しかし帰国して、日本国内でもこういう活動やりたいなと思って動き始めるも、まったく周りの共感が得られず。
当時、"ボランティア"って偽善者のレッテルを貼られる存在で、JHPの仲間以外ではかなり白い目で見られたのを覚えてます。
そもそも僕も、国内ではボランティアしたことなかったし、カンボジア行くまでは残念ながらそっち側(ボランティア=偽善者のやること)の考えを持ってた気もします。

「まずは自分が国内でもボランティアしてみよう」と思って調べたところ、『ジェン』というNPO法人に出会い、新潟県十日町市へ。
そこでは、新潟県中越地震で被災した池谷集落といういわゆる"限界集落"の復興をお手伝いするということで、年間を通して色んな活動を行われていました。
例えば、夏には田植え、秋には稲刈り
そして、冬には雪下ろしのお手伝いかまくら作りなど。

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自然と共に暮らすその集落には、このボランティアを通じて少しずつ移住してくる人たちが生まれ、地域の人たちと共に新しい未来を描くというフェーズに入っていました。
(ここで後に地域おこし協力隊のカリスマ的存在になる多田さんに出会うも、当時はあまり協力隊のことは理解してなかった) 

この体験で「やっぱりボランティアって楽しい!」と思うようになっていた矢先、2011年3月に東日本大震災が起こります。埼玉に暮らしていた僕は、震度5強を体験。東北では未曽有の大被害が発生しました。
「自分に何かできないか」と思っていたところ、カンボジア支援を行っていたJHPが宮城県南三陸町に災害ボランティアセンター(通称、ボラセン)の立ち上げを行います。
僕は、2011年3月末に初めて南三陸入り。ボラセンのスタッフを東京から送り届けたり、東京へ帰るお手伝いをする仕事でした。
ここでご縁が生まれ、自分で仲間を集め南三陸町へ通う生活が始まりました。

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1年前には白い目で見られていたボランティアが、このときは日本中で求められていました。
僕の周りの友人にも、「何か自分ができることをやりたい」という人たちが増えていました。でも、まだ現地がどうなっているのかという情報が少なく、だったら現地と繋がりをつくれた自分がチームを作ってボランティアツアーを定期的にやろう!と動くことにしました。
チーム名は、「ボーズ」とつけました。「ボランティア(Volunteer)をする機会(Oppotunity)が気軽にある社会(Society)をつくる」という、僕がカンボジアから帰ってきたときに作った理念から、その頭文字のVOSをとって(むりやり)ボーズと読むことにしました。
僕はそこで、人生ではじめてリーダーという立場になりました。

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このツアーを一緒に運営した仲間と一緒に、このツアーを4年半続けました。関わって一緒に南三陸や新潟へ行ってくれた人は、全部で100人以上。
その間、個人的には結婚したり、子どもが生まれたり、仕事の面では携わった薬が世の中に出る(上市される)という経験もしました。

そして、南三陸へ通った4年半という時間の中で、
・製薬という仕事への関心の低下
・都会での子育てへの違和感
・地方の面白さ

と向き合いました。
また、ボーズでのリーダーという経験が自分に大きな自信をくれました。

そういった経緯を経て、僕は「地域おこし協力隊として、地元にUターンする」という道を選ぶことになります。

続く