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第一話:灯す屋ができるまで ②学生時代編

僕は学生の頃、地元に戻りたいと思ったことはありませんでした。
5年前から有田のまちあるきばかりしている自分ですが、むしろ、田舎で刺激の少ない佐賀も有田も正直ぜんぜん好きじゃなかったです。


子どもの頃に、記憶をさかのぼります。


僕は小学生の頃、医者になりたいと思っていました。

幼いころは病気がちでよく通院してたから、いつも治してくれる医者に憧れていたこともあったし、大好きな婆ちゃんが病気になったときに自分が治して出来るだけ長生きしてほしい!という想いがあったからだと思います。

あとは、伝記で読んだ野口英世に憧れてました。

自己犠牲の精神がある感じ(と子どもの頃は思ってたけど、きっと本人はそう思ってやったんじゃないと今は思う)が、ヒーローっぽくてかっこいいなって思ってた気がします。

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その後、医者から薬の研究者に目標は変わりますが、
東京へ行って大学院へと進み、化学の勉強をしてきました。

でも、僕には大きな欠点がありました。

それは、化学の勉強があまり好きではなかったということ。

薬の研究者にはなりたかったし、実験は好きだったんだけど、化学の勉強はあまり好きではなかった。好きじゃないから没頭するということもなくて、時間を忘れて……なんてことが出来なくて結構悩んでました(そして、今もそういう¥悩みはちょっとある)。

それでも、研究室の先生や先輩・同期たちの助けも大いにあって、何とか薬の研究者になることはできました。アナリティクス(分析)という分野だったことは、もしかしたら今になってその考え方や経験は活きているのかなと思ったりしてます。

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研究をやってたおかげで、"失敗慣れ"というもしかしたら身につけにくい能力を自然と習得できたのかもしれません。



そして、大学4年を卒業する直前の卒業旅行で、人生の大きな転機となる出会いがありました。


当時、研究室の間で「世界遺産」ブームがあり、僕は卒業旅行で人生2回目の海外旅行へ行くことにしました。
僕はなんとなく、カンボジアを選びました。


カンボジアに行って、アンコールワットなどの遺跡群を巡っていたとき、ふと1人の幼い女の子と出会います。


その子(7~8歳くらいかな)は、そこで観光客相手に物売りをしていました。
「ワンダラー(1 dollar)」を連呼しながら近寄ってくる子どもが多い中、その子は日本語英語を駆使して(もちろん現地語も!)ものすごく賢い。めっちゃすごいなと驚きました。


いつまで経っても英語をスラスラと喋れない自分からしたら明らかに優秀だと思えるのに、その子は学校へ行けずにワンダラーの物を売っている。


なんだろう、この気持ちのわるい世界は。


いくら化学の勉強をしてもなかなか頭に残らないポンコツの自分が勉強する機会を与えられてるのに、家族のために一生懸命働く賢いその子は学校へ行けない。


僕らだけじゃなくて、この子たちにも勉強できるチャンスが平等に与えられたら、絶対にもっと世界が良くなるはずなのに。


と、モヤモヤモヤモヤと考えてました。
なんか、出来ないかな。そういう勉強、してみたいな。

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そして、翌年、分析化学の研究をする大学院に進んでいた僕は、途中でもう1つ大学院に通うことにしました。

渋谷にある国連大学というところで、僕は色んな国の人たちと一緒に半年間、国際問題のことを学びました。

授業も意見交換もプレゼンも全部英語で行われるその場所は、自分には地獄のようにしんどくて全然理解することが出来なくて。
帰りの電車ではしょっちゅう泣いてたんですが、なんとか通い続けて修了。その頃はたしか、いつか転職して"国連職員になる!"と思って勉強していました。まだ、どこにも就職もしてないのに(笑)。

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という感じで、学生時代は薬の研究者になること、そして大学院時代からうっすらと国際協力の仕事もやりたいと思うようになっていました。

まだまだ、この頃は全然佐賀には興味ないって感じで暮らしていましたね。

つづく。