過去の間違いを洗いたい

「勉強ができないと、おちこぼれというレッテルをはって、意図的ではないにしろ、勉強ができないと生きていけないような気持ちに知らず知らずのうちにさせてしまうようなところが、学校にはあるとは思わない?
(中略)わたしたちは、まだ若いから、これからなんども壁にぶつかって、ときには粉々に砕けてしまかもしれないけど、そういうときに、ゼロに戻っても、また壁に向かって生きていけるような力をつけてほしい。
そんなことを教えてほしいの。」(灰谷健次郎、天の瞳より)

書いているときは、おはようございます。

もなりんです。

今回は、私の好きな小説から。

天の瞳は、学校というものに疑問をもちつつ、そのなかで先生との関わりや生徒同士、学校外の人とのやりとりを通じて成長していく話をしているのですが、そのなかからの一説です。

場面としては、中学校内で何者かに窓ガラスが割られていて、それが校内の生徒によるものではないかということがささやかれたなか、乱闘事件が起きました。

窓ガラスの事件が解決されておらず、そんななかで乱闘があるにもかかわらず解決に乗り出さない学校に対して、説明会を開いてほしいということになり、そんななかである教師が生徒の作文を持ち出したときの一説です。

先の発言をした生徒は学校の在り方に疑問をもち、不登校を続けています。

その子は学校に来ていた頃は友達と話をしたりして楽しんでいたのですが、すぐにこなくなってしまいました。

作文自体は不登校している子の友人が書いたという設定で、友人が不登校の子からこんなことも言っています。

「ものを考える時間なんて、全然ないじゃない。学校では決められた時間に、決められたことをやらされ、家に帰るのは夕方でしょう。
すぐに宿題をやらなくちゃいけないし、自分の時間が全然ない。(略)」

「なにかをしているんだけど、なにも考えていなくて、自分には、のっぺらぼうな暮らししかなかったのかと思ったら、うわぁって叫び出したくなったの(略)」

「人間は、自分がやりたいと決心したら、それを実現できる能力を持っているのに、そのことを考える時間もないのは、とてもかなしい」

そのほか、作文のなかには胸をうたれることが沢山書いてあります。

さて、ここからですが。

ただ何も考えずに社会人になってしまった人、いや、考えることすらも考えに入ってこなくなってしまう人がこの世の中にはあまりにも多いのではないかなと思います。

もちろん、誰かの役に立つために、自分の生活のために生きることは必要です。

しかしながら、学校以上に拘束が長くなってしまう社会人(サラリーマンは特にそうですね)は、あまりにも拘束に慣らされすぎて思考も行動も止めさせられてしまっている。

そうしているうちに周りの人間は考えずにいきる人達ばかりになってしまう。

それって、おかしくないかと思いますね。

それがどこからおかしくなるのかというと、教育としておかしさがあるなというのを言わざるを得ません。

結局は誰かの、どこかの奴隷になる。

そんな人ばかりというのは、やはり間違っている。

そして失敗というものを許せない社会というのもまた、おかしさを生み出しているようにしか思えない。

失敗というものをいかに社会として許せるか。
そして挑戦というものを後押しできるか。

そんな考えをもてる人が多い社会に、なってほしい。

ただ、そうあってほしい。

もう、現状にはごめんだ。

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