「病院へなぜ行っているのか?」の根本

これが、何回目の日曜日なのか。
はたして、「曜日」や「時間」の概念すら勝手につけたものでしか思えない。

おはようございます。

朝からまた価値観の疑問が出てきている、もなりんです。

一応、理学療法士です。てかこの肩書きももはや自分にとって不要の産物でありたい。
これがなかったら、今まで経験してきたこととかが書けないから完全には捨てられないですが。

今までも散々書いてきました。

健康のこと、運動のこと、理学療法のこと、考え方のこと…。

確かに、個々で色々と問題はありそうだなとは思いました。

ただ、それではあくまで対症療法的な一面になるものもあるなとは思いました。

じゃあ、この根本的にどこにあるのかな?

ちょっと、考えてみます。

前回のでは、「各個人があまりにも各人で体をよくしようとせずに目の前の医療従事者に依存している」というようなことでした。

運動療法の闇みたいなもの|もなりん @tomomontt #note https://note.com/tomomonttbb/n/nb4538c74621d

じゃあ、なぜこういうふうにあまりにも依存的になるのか。

一番自分が疑っているのは、

そもそもの教育として、人に言われたことをしっかり聞きなさい。

ということもあるのかなと思いました。

しかも教育内容としても、自分で考えさせずに与えられたことに対して正しく応えさせるものばかり。

たとえ記述の問題で「なぜ◯◯なのでしょうか?」としても、応えられない人が少なくなく、すぐに参考書の答えをみようとしてしまう(これは自分も高校の頃もやってました。はい。今は時間がかかっても自分で考えるトレーニングを既に経験をしてますので)。

それで色々なものをみてみると、どうもいかに自分達が「他人の価値観」や「考え方」を押し付けられて生活をしていることかがよくわかります。

先の例では「曜日」であり、「時間」もそうですね。

あれもまた、ずっと昔の人が見つけた「意味付け」に過ぎないんですよね。

確かに、意味付けをしたものが全員が共有できたら生活はしやすい一面はあります。
サラリーマンとかその典型ですね。
型にはめて動いているという点では。

ただ一方で、曜日とか関係なく働いている人がいるのも事実。
むしろ最近はそっちの方が自然なのかもしれないとすら思ってますね。

ということは、「何かがあったら病院へいく」ということは、

「病気など、自分の体に何かがあったら病院の人に聞けば何でも治してくれる」

そういう価値観を植え付けられているのではないか。

そう考えると、ぞっとしますね。

病院の存在云々について、もう少し書きたいことがありますのでまた次回。

※実は訪問に転職したきっかけにもなったりしています。

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