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取材するとはどういうことか

今日も一つ、とても大事に育てていきたい本の取材が1本。時間が限られていたので、用意しておいた質問の三分の一くらいで終了した。

それでも、私にとっては大変実りのある時間となった。手応えというか、「なるほど、そういうことなのか!」という言葉を一つ、もらえたから。

1時間かけて、手応えのあった言葉1個。取材って、そんなものだと思っています。

取材
[名](スル)芸術作品や報道記事の題材・材料を、ある物事や事件などから取り集めること。「神話に取材した作品」「師走の街を取材する」(goo辞書より)

ライターとしての活動は、かれこれ15年くらい? 出産や子育てで開いていた時期もあるけれど、細々と継続してきた。

この仕事が好きでずっと続けてきたけれど、「取材」が一体どうあるべきか、どういうものが素晴らしい!ものなのかは、ずっとわからないままだ。

私は取材が上手いとも下手だとも思っていないが、明確に「これ」という輪郭を持たせて、そのピースを埋めていくような取材は、できないからそんなに自信があるわけでもない。

それよりも、輪郭の周辺にあるものを集めて、ぼんやりとした造詣が浮かんだところから、「こ、これかな・・・?」っていう質問を投げていることが多い。伝わってますか(笑)


けれども葛藤するのは、取材は必ずしも、「本人の腹の底にある本当の気持ち」を救い上げることが目的なわけではない、ということ。

表面的なコメントだけで良い、条件や形態がわかれば良い、時間内に終わらせてくれたらいい、

そのような、出しては忘れられていく情報を「取り集める」ことが求められているのが、関わってきた媒体に多かった、ということなのかもしれない。

でも、それって流れていくものだよね。私はそれでも、取材して書くという仕事を楽しんでいたけれど、やっぱりどこか物足りなかった。

ほんの1時間でも現場を同じくするのであれば、その人のまだ言葉になっていない思いを知りたいな、と思っている私は、ただの粘着質なのでしょうか。

もっと、その人の奥の方にある、澱のようになって溜まっている言葉を、私は聞きたい。そこにこそ、行動の原動力があるし、そこにこそ、周りを照らす言葉があると信じたい。

だから、書籍作りにシフトしたのは正解で、私にあっているなと感じる。


かつて沢木耕太郎さん(大好きすぎて)は、ルポライターとしてのお仕事を

「すべてのルポルタージュは、相手に対するラブレター」

とおっしゃっていたけれど、私の心にもずっとその言葉がある。

興味がある、知りたい、という気持ちは結局、「あなたのことが好きです」と言っているのと同じ。

初めて出会う人でも、旧知の人の取材でも、私はあなたのことが好きです、もっと知りたいです、というもはやこっちも告白する勢いで、心を開いて取材というものを堪能したい。

いつもうまくいくとは限らないし、できないことももちろんあるけれど、

たとえ無防備だと言われようと、せっかくお互いの時間を使うのだから、取材は双方にとって、覚醒の時間であって欲しい。

すらすらと出てくる言葉よりも、自分でも思ってもみなかった言葉が、ぽろっと出てくる瞬間に立ち会いたい。





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