見出し画像

ことばの標本(17)_「学校の教科は、メニュー表みたいなもんなんや」

「どれも全部やれるようになる必要はない。学校の教科っていうのはな、これから自分がしたいことを見つけるための、学びのメニュー表みたいなもんなんや」

(「なんで子どもは勉強しなきゃいけないの?」という問いに対する、定年退職した教師の友人の答え)


院生として同期だった友人は、中途採用されて学校教育に携わること十数年。久方ぶりにあってみれば、容姿にさほど変化ないものののすでに定年退職を迎えており、タメ口をきくには失礼すぎる年齢差があったことを認識させられた。

そんな年上の友人に、中1の娘がよく言う「ああ、早く大人になりたい。なんで子どもは勉強しなきゃいけないの。数学とか体育とか、大人になって使わないじゃん」を投げかけてみたところ、冒頭の答え。

教育とは何か、学ぶということは何かについて愚直に向き合い、言葉に集積してきたその質量を感じ、今のところ、私にとっては「なんで学ぶの?」に対するもっとも娘に伝えたい解の一つになっている。


「日本の学校教育の制度で言えばな、元々は身分の高い人や一部の人間だけが、自分から仏教を学んだり、文字を書いたりして、自分から知りたいと思って学びにいくものだったんや。それを、一部の人だけではなく、みんなに平等に機会を与えましょうってことで、学校教育の制度ができた。もともと、教育っていうのは、”自分が知りたい”と思ったことを自分から取りにいく、そういうものやったわけや。それが今、義務教育みたいな形で、みんなが平均的に、学べるようにはなった。でもみんながそれをやらなあかん、全部できるようにならないと、みたいになってる。自分から学びにいくようなものにはなってないわけや。だから子どもらもしんどいねん。なんで勉強せなあかんの?ってなる。

今の義務教育で言えばな、学校の教科っていうのは、誰に対しても効率よく勉強を教えてくれるとこやねん。でも、数学も国語も、理科も、どれも全部やれるようになる必要はない。教科っていうのは、これから自分がしたいことを見つけるための、学びのメニュー表みたいなもんやとおもたらええ。学校は、これから先、自分から学びたいと思って学ぶ、本当の勉強に向かうために、知っといたらええ一番の基礎の部分を教えてくれとるわけや。その先に、もっと深い専門的な学びは広がっとる。その手前で、「どれにする?」ってメニューを並べてな。

でも、どんなメニューがあるんかも知らんかったら、そういう世界があることも、その先にさらに世界があることも知らんままや。知らんままの世界で、自分は目の前にあるこれでええわ、って選ぶのと、いろいろかじって、そういう味があることを知った上で、「自分はこっちの方が好きやわ」ってわかって選ぶのとでは、その先に見える世界がやっぱり変わるからな。知った上で自分で選び取れる方が、そりゃあええわな。

数学なんかもな、日常では使えへん。でもあれば、義務教育のうちは、使うことや知識を増やすことのためにやってるんじゃなくて、達成感を得るためのものやと俺はおもてる。問題を一つクリアできた、その達成感が持てたら、それでええもんなんや。それが次の課題に行こうと思う力になるからな。そういう教え方が、現場の教師にできてないってことは往々にしてあるわな。こういうふうに決まっとるから、覚えろ、っていうふうにな。

俺は、義務教育なんてものは中1くらいで終わればいいと思ってる。部活なんか地域社会に任せたらいい。草野球でも地域のサッカークラブでも。授業は午前中で終わらせて、あとは自分の好きな世界でやりたいことやればいい。それが理想や。でも日本の学校教育、、、これはなかなか変わらんな。まあ、勉強っていうのは、自分から学びに行くものなんやっていうのを、今のうちに教えてあげられたらええな」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?