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「わからない」体験が、言葉に意味を持たせてくれる

今年の夏休みは、二年ぶりに「読書感想文講座」を開催することにしました!

地元(愛媛県東予エリア)限定で対面のワークショップ、それから、オンライン&マンツーマンでも対応します。

久しぶりに子どもたちに会えるのが楽しみです。
詳しくは、「こども表現の教室」HPへ▼


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こういう講座をまたちょっとずつやろうと思ったのは、やっぱり言葉を養うことが表面的になりつつあると、自分なりに感じているからかなと思います。

自戒を込めてですね。私自身、上っ面の言葉を重ねていないか。

例えば、「スタバでお仕事してます」っていう写真入りのツイートに対して、「リア充自慢か」と反応する。

例えば、「妊娠しました。やっと安定期に入りました」っていう報告に対して、「大袈裟に投稿することでしょうか。傷つきます」と反応する。

最近の「炎上」とか「反論」とか「論破」を頑張っているSNSの書き込みには、読んでしまうと苦しくなるものが多いです。かといって、どうしてもそういったものに視線を奪われてしまうのも事実。

鋭利な言葉は、人を惹きつけます。

読解力っていうけれど、突っかかるようなそれらは、文章を読解しているのではなくて、反応しているだけなのよね。

「自分がどう受け取ったか」は、その時反応した自分を綺麗に表現してくれるものです。その時の自分が、ダダ漏れなんです。

つまり、「妊娠が羨ましい」「私は充実していない」っていうことを、本当は言いたい。

そして、相手がどういう状況で発信しているかに思いを馳せることなく、自分を条件反射みたいに、ワッと反応させしまうのは、なぜか。


本音は、相手を言い負かしたり、相手の間違いを正したいとか、謝ってほしいとか、そういうことじゃないと思います。本当の本当は、そういうことがしたいんじゃない。

自分の本音は、ただ

「今の私を認めてほしい」。

そして、それすら、自分で認めたくないという。


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言葉を養うとか読解力とか、国語や教育の世界ではいうけれど、そんなもん、長文たくさん読んで問題解いたくらいで、養えるもんではありません。ちょっと作文したくらいで、言葉をたくさん知っているくらいで、コミュニケーション力が上がる、なんてことはあり得ない。

言葉って、私にとっては、知識や情報ではないのだ。

言葉とは、体験のこと。体験があって、初めて、自分の言葉になる。体験があってやっと、自分の中に「痛み」「悲しみ」「喜び」として落とし込まれていくのであって、机の上で問題解いて養うものなんかじゃ、ないです。

それなのに、なんかわかったようなことを言ったり、書いたりして、それを自分に問う前に、自分に向ける前に、誰かに向ける。

本当は、もっと奥の方にいる自分の本音を無視して、周りに向ける。

今の自分で、今の感受性で、自分を表現する。そしてそれらを表現してみないとね、伝わるのか、伝わらないのか、自分がみんなとどんなふうに違うのか、それとも理解しあっているのか、「わからない」。

「わからない」を理解していくことで、言葉はやっと、ほんとうに意味を持つようになるんだと、私は思います。

これはね、私も今絶賛、取り組み中です。なんも、SNSだけじゃなくて、身近な家族、友人、仕事仲間。「わからない」「わかりたい」という一つひとつのコミュニケーションから、ちょっとずつです。


読解力は、その人自身の、その時の、受け入れられる多様性の幅のことをいうんじゃないかしら、と最近思います。

子供の頃に読んだ本が、大人になってから面白い!と感じるように、言葉の意味は、自分が変化するたびどんだけでもあるってことを、教えてくれるものなんじゃないかしら。

言葉の力というけれど、言葉だけじゃダメなんだ。体験、時間、変化があってこそ、言葉は力を持ち始めるような気がする。

というわけで、私自身も、自分の言葉を地道に磨いていきたいと思ったのです。

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