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毎日書きつづけてみてわかった、「質より量」の意味

うちの娘(中1)の担任の先生は、ほぼ毎日、学級新聞のようなペーパーを発行してくれる。

A4の紙に、クラスのできごとや、成長や学びにとって大事だと思う考え方、実践法、ときに読み物、ときにアルバムと、バラエティ豊かにまとめて下さっていて、保護者というよりいち読者として、毎回読むのを楽しみにしている。

クラス運営に加えて、授業、会議と日々忙しいだろうに、先生ったら一体全体こういうものを書く時間、どこで捻出しているんだろう?

「先生、これほんまに毎日書いてんのかな?」と尋ねると、「わからんけど、職員室行ったら大体パソコンでぱちぱち打ってるよ」という娘による目撃情報も。これまでの経験によって書き溜められてきたものがあるとしても、今年のクラスの、今日の子どもたちに必要なメッセージを毎日書くわけである。(ゲーマー&読書家な先生らしいです)

分単位の先生のスケジュールを想像するに、読み応えのある学級新聞を毎日シャーって書いてしまえる、先生の文章力と情報量、それ以前にコツコツと蓄積されてきたものに感服するしかない。

やれない自分が容易に想像できるからこそ、思うのである。先生には、伝えたい思いを、見失わずにいるんだろうなと。

「こういう考え方を知っていると楽だよ」「こんなふうに成長できたら素敵だね」と、今、子どもたちに受け取ってほしい「何か」が見えている。だからこそ、培われてきた情報や知識、学びの中方、今日必要なものが何か、すぐに呼び出して書いていくことができるんだろうなあと。想像ですが。


私もこうやってnoteを毎日書くようになって1年。「なんでこんなに必死こいてんだろう」っていう日もあれば、書きたくてたまらない日もあり、そんなこんな含めて、自分×「書く」の関係性が以前よりは掴めてきたような気もする。

私にとって毎日書くっていうのは、思ったよりも根性論だった。私には、大きな声出して叫びたいこともそんなにないし、誰かに何かを伝えようと思って始めたわけでもない。

トレーニングしたい、みたいな単純な動機だったけれど、結局私は「書きたい」というよりも、「届けたい」という気持ちの方が強いこともわかった。

書くのだとしたら、隣に悲しそうな顔している人がいたら、「どしたの」と声かけてあげるような、そのくらいのことが書きたい。ものすごい楽しいことがあったら、「いいこと教えたげる」みたいな気やすさで届けたい。

先生からもらう毎日の学級新聞の在り方に、もしかしたら近いものかもしれんなあ。ここに綴ってきた悲喜交交もまた、いつかどこかで引っ張り出せるデータベースみたいになってくれたらいいんだけど(駄文が多すぎて)。

けれど、これだけは言えるのである。質より量なんだってことだけは。

先生もきっと、そうだと思う。積み重ねがあるから、パッと出せる。これだ、と即決できる。迷っている暇があったら手を動かせば、1行だって進むわけだから。

質より量っていうのは、量をこなせばスキルが上がる、みたいに捉えることができるけれど、それだけじゃない。書けたら、また次をかく、ということは、他人の評価や受け止め方を気にする前に、「自分が前へ進む」ということだ。

どんどん生み出す。曝け出す。次へ行く。また出す、つぎへいく。

うじうじと悩んでいつまでも出せない自分と、中途半端でもなんでも今やれる精一杯と思ってとにかく生み出していく自分とで言えば、残りの命を大事に使っているのは後者だなと。根性で続けてみなければ、わからなかった世界にやっとこれた。

そろそろ、手渡したいものを抽出していく時期でもあろう。と、そんなことも感じ始めた、もうすぐ1年、そして春である。

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