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中高生むけの教材で名文に出会ったのでメモ

中・高校生の小論文によく出る評論などをチェックしていて、出題される課題のレベルの高さに驚いています。中学生ともなると、新書レベルは余裕で読ませたり、読解させたりするのねえ。

ジュニア向けの新書からの出題が多いのかもしれないのですが、面白くなったので、自分の本棚にも似たようなものがないか探してみました。

まあ私も永遠の中2病みたいな者ですから、そりゃあります。笑。

本当は読解問題や小論文の練習課題の参考にしたかったんですが、いつの間にか自分のための読書の時間になってしまったので、

今日であった名文たちをここでシェア。

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教養のつけ方は酒造りに似ている

 「私には教養がないんです」という人がいますが、本当にそうでしょうか。義務教育である上・中学校、さらに日本では99%の人が進学する高校で、誰しも基礎的な知識は身につけているはずです。知識はあるけれども、その運用力が欠けているため「教養がない」と感じてしまっているだけなのです。
 学校出た知識を定期テストや受験に使うだけで終わらせず、大人になってからも折に触れて振り返り、生活に応用していくことで、教養は身につけることができます。さらには学び続けていくことで、教養はどんどん鍛えていくことができるのです。
 知識を教養に変えていく方法方法は、たとえるならば、紀元前から人類が連綿と続けてきた酒造りの工程と似ています。ブドウをいっぱい集めて溜めておくと、ブドウに含まれる糖が発酵してワインになります。米は水と麹菌とともに発酵させると日本酒になります。これと同じく、知識がたくさん溜まり発酵が進めば、「教養になるということです。
 ただし、ただ貯めておくだけではお酒も腐ります。発酵と腐敗は紙一重なのです。そこで折々に「かき混ぜる」という作業が大事になります。日本酒造りでは「櫂入れ(かいいれ)」と言う工程で酒母やもろみをかき混ぜ、発酵を促します。
 知識も、持っている知識をただそのまま置いておくだけでは、結局腐ってしまいます。ときどき棚卸しをしたり、どんな知識を持っていたかなと振り返って使う、つまり知識をひたすら蓄積しながら、時々それをかき混ぜることで、教養となっていくのです。

池上彰著『なぜ、読解力が必要なのか』(講談社+ α新書)


自我など捨てようが、自分はちゃんとそこにいる

粘土のように次から次へと潰されて形を変えられる存在になりたい人など、おそらくいないでしょう。何しろ、自分を大切にしろ、などとばかり教えられてきたので、にわかにそれがよいことだとは思えません。しかし、ある形を持っていなければならないと思い込んでいる自分の思考が変われば、何のことはなく、どうしようとも自分は自分であるとわかるのです。自我なる概念に、とかく人は捕われがちですが、自我など捨てようが自分はちゃんとそこにいるのです。仕事では、今ここで何をすべきかを見極めて集中する。自分にはこだわらず、次々に外からアイデアを取り入れたにしても、塑する思考(をする自分)が保たれていれば、自分を失うことなどあり得ません。

佐藤卓著『塑する思考』(新潮社)


言葉は沈黙を伝えるためにある

正しく語られた言葉は、必ず伝わる。十分伝わるんです。何を伝えるかというと、皆さんもうすでにご存知のように、言葉では何も伝えられない、ということを伝えているわけです。言葉では伝えられないということを、言葉で伝えて、そして共に言葉を超えていけるという、こういう不思議な往還運動がここに起こっていると思います。逆説的ですが、言葉は沈黙を伝えると言ってもいいです。
 本当は、言葉は、それが「ない」ということを言うためにあるものですが、ほとんどの人は言葉で語られると、それが「ある」と思ってしまう。本当は、言葉は「ない」ということをこそ言うためにあるんですよ。そういうふうに、語られた言葉を常に空の側に戻してやる、そういう自覚的な作業をしていると、他人の言葉にだまされなくなります。

池田晶子著『人生のほんとう』(トランスビュー)



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