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それでも抱えて生きていく人たちの|カツセマサヒコ『明け方の若者たち』

人は、生きていかなければならない。

感情が水たまりのようにこぼれ落ちていく悲しみを経験しても、その悲しみが時間とともにゆっくりと霞んでいったとしても、しっかりとまだ心の奥に残っていて、ふとした折につんと胸を苦しくさせること。

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捨てられなかったプライドや見栄、大切にしたかった記憶、間違っているとわかっていても、この道ではないのだと「物分りのいいほうの私」は自覚できていたとしても。それでも手放したくない、手放した瞬間「私が私でなくなってしまうような」。そういう恐怖や、日常生活を営む「ふり」をいくらしていても、時々駅のホームを出た瞬間、膝から崩れ落ちてしまいたくなって、どこかにこのまま消えてしまいたくなるような。

そういう、「消えない」「まだ残っている」「そしてこれからも体と頭にまとわりついているような」感覚を両腕で抱きしめながら、まるで見えないずっしりとしたスーパーの袋を、どんどんとその両手に増やしていくように。

私たちは、生きていかなければならないのだ。生きているのだ。そうやって生きている人が、この瞬間も、この駅に、この街に、この陸続きのどこかにたくさん。いるのね、と、引きちぎられるほどの、今となっては顔を覆って隠れてしまいたくなるような恋をしていた頃の私。そういう私を、沼の底からずっぷりと引きずり出すように、やわらかな光を当てるように。起こしながら読ませてしまうのが、カツセマサヒコさんの小説『明け方の若者たち』なのだと思った、夕立の日のこと。

なるほど、これはあなたの物語で、私たちの物語なのだ、すべての恋をしたことがある人の。たくさんの恋をしてきた、一度や二度「あなたじゃなきゃだめなの」と思ったこと、それでも叶わなかった願いや祈り、悪い予感の方だけがいつだって当たること、分かっているのに変えられない気持ち、「しあわせってなんだろう」と最終的に歪んだ正当化が頭を支配するじんわりとした滲み、淀みみたいなもの。

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誰もが知る「明大前」「下北沢」そして私が気に入る「登戸」という土地に、新宿、渋谷、ほかの誰かのことを想いながら、違うひとのぬくもりに包まれて感じてしまう眠気のやりきれなさ。

段々と空は、夕立を経て虹を見せ、日暮れから闇へと変わってきて。そしてきっと、そのうちまた明け方を迎えてゆくのだ。何度も何度も、経験したことのある「明け方」というマジックアワー。魔法みたいな時間帯を、目を見開いて捉えることもできるし、目をつむってやりすごすことも選べるし、でも大半は眠ってしまっていたりして。


大人になっていくということは、美しく感情を昇華して進んでゆけることとはまた違うみたいだ。やりきれなさも、抱えきれない想いも、消えなかった恋心も、それでもまだあなたと居たかったと願う祈りに似た絶望みたいなこと。泣きそうになっても、たとえ本当に泣いてしまっても、それでも時間は過ぎて、様々なことに折り合いをつけて、この社会を構成するひとりとして歩くこと。

今年の夏は、なんだかとても蒸し暑い瞬間が多い気がして。まとわりつく湿気、追い払っても、追い払っても。お盆の休みに、もしかしたら、『明け方の若者たち』はよく馴染むのかもしれないなと。


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