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朝のルーティン、時の刻みを教えてくれる花さえあれば

朝、目が覚めたら私はまず指先で大切なものを探す。それから、カーテンを開け、窓を開けて、新しい空気を部屋の中に取り込む。すべてはそこから始まってゆく。1日。

「Verseau」というハーブブランドを、友人がつくっている。「Akeru」というなんとも朝にぴったりのお茶があるので、それを淹れよう、とお湯を沸かそうとする……ところで、昨夜飲みかけのまま、シンクに置いてしまったワイングラスに入ったビールを見かけ、見えなかったふりをしてそのまま湯を沸かしにかかる。

「Akeru」だなんて。そんなこと言えないくらいの時間に起きてしまった。頑張って早起きして8時。もっと朝型になりたい、と言い続けて10年くらい経ってしまったのではなかろうか。長旅で、時差調整だけは本当に胸を張ってうまくなったと言えるのに、早起きだけは、早朝フライトの時しか、できない。

お湯を沸かす間に顔を洗って、髪をとかし、歯を磨いて一通りの支度を済ませる。温度調整ができるケトルを買ったことが最近の密かなしあわせなのだけれど、そんなことをしているうちに100℃だったお湯は98℃、97℃とみるみる下がっていって、時間が経っていることをそこでもまた確認する。

コロナの影響があって、私の生活はガラリと変わった、と言いたかったけれど、元からフルリモートワークで、というか個人事業主なので、リモート……っていうのも少しおかしい。

余談だけれど、私はもともと金融の総合職勤めで、その後半年ほど専業主婦(数年前に関係は解消した)期間を経て、出版業界に潜り込み、そこから兼業で1本500円のライターをはじめ、そこから独立、と思いきやWaseiという知人が営む会社の一号社員として入らせてもらって、2019年の4月に初めて「ほんとうの独立」というものをした。「いうても私、去年まで会社員だったから」という言い訳を昨夜もしたのだけれど、よくよく考えてみると出社義務のあるスタイル、という意味ではこの5〜6年、いやもっとだろうか、7年くらいないのかもしれない。

何の話だったっけ。つまり、そう、「どこへも行けるはずなのに、どこへも行かない」日々を今日も送っているということ。時折、とくにこんな雨がしとしと降る日ではなくて、青空晴れ渡り、空気がからりとしてしまったような。そんなヨーロッパの夏を思い起こさせるような日に出会ってしまうと、無性に「どこか遠くへ行きたい」と狂おしいほど願う。

もう少ししたら、来るのだろうか?とにかく、何かのボーダーラインを越えたいのだ。変な性癖である、と自分でもだいぶ自覚している。青い海、青い空、通り抜ける風。暮らすことを楽しむすべを得た今でも、旅への憧れは消えなくて、どこかへ行きたい。

そんな日々の中で、時の刻みを教えてくれるのが花や植物、ベランダのプランターのハーブや野菜たちだと、最近はよく思う。昨日はつぼみだった花が開いていたり、開いたと思ったら閉じたり、ポタリ、と音を立てたと思ったらひらり枯れゆく姿をリアルタイムで眺める。「生きている」と彼らは言う。日々、日々。時が止まってしまったような、一旦止まれ、と誰かが命じたような、ふとそんな不思議な時間のポケットに迷い込んでしまったような流れの中で、「いえ、時間は確実に流れています」と。彼らは教える。

身支度を済ませたら、そんな彼らの時の刻みを確認するように、ボウルに水を溜め、茎を2センチだけ切り、一つひとつ花瓶の水を替え、水の冷たさの移り変わりまで覚えてゆく。

ベランダの野菜たちは、土の量にすると100リットルを超え、数にすると10以上のプランターになるから、水をやるのも一苦労だし、最近はもっぱらアブラムシという私にとっては新しすぎる人類の敵と戦う毎日で、「農家ってすごい」の念が消えない。

昨日片付けきれなかったものを綺麗にして、掃除機をかけ、デスクを吹いて、スピーカーの電源を入れ、音楽をかけ忘れていたことに気がつく。スムージーだったり、自家製ヨーグルトだったり、今日みたいに、春なのに少し肌寒い日はロイヤルミルクティーとか、チャイを入れたりする。その時ははちみつをたっぷり加える。

そう、そんな風に。そんな風にして私の毎日は、最近始まってゆく。移動距離は短くなっているはずなのに、どうして終わるのが、早くなるんだろう。この1ヶ月間の暮らしぶりが、好ましいものなのか、好ましいものじゃないのか、何を変えたいのか、何を変えたくなかったりするのか。そういうものを、きっときちんと自覚して、理解して、次の数年間に向けて行動を起こしていける人が、また次に訪れる大きな変化に、うまく対応できていったりするのだろう。まずは、自分を知ることから。

狂おしいほど旅のことが愛しいけれど、一方で、ベースを作ること、静かに生きること、移動と対面を最小限にとどめて、テクノロジーの力を借りて過ごすこと。そういうことに、小さくしあわせを見つけられる大人に育っている、ということが、私はじつはやっぱりすこし、心地よかったりするのだ。20代の終わり頃に比べて、随分と賢く生きやすい生態を得たものだ、と自分でも驚く。

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