時の移り変わりと色彩の美しさを静かに伝える、花に土、葉
さくり、さっくり。土を混ぜ合わせ、なでる心地よさを、まさか時が止まったような関東圏のちいさなベランダで体験するとは、よもや旅人の頃の私は想像していなかった。
お菓子作りや、料理や映画鑑賞。多くの人が心穏やかに過ごせるようにと創意工夫を凝らす中、私もご多分に漏れず、けして広くないベランダいっぱいに60センチくらいのプランターをたくさん並べて、そこに「私以外の生きもの」を植え付けることを選んだ。
できればハーブを数種類、夏野菜を自分で収穫して、だいすきなナスの揚げ浸しだとかズッキーニのフリット(揚げてばっかり)、ミニトマトのカプレーゼだとか、そういうものを作れたら楽しいんじゃないか、みたいな構想を重ねて。
土はでは何リットル必要で、プランターは横幅深さ何センチ、後追いの肥料ってなによ、元肥とは一体? みたいな試行錯誤を繰り返し、必死こいてたどりついた結論を迎えたら、ベランダに置いてあったこれまた小さな真っ白の木目まばゆいテーブルとイス2脚は、肩身狭そうに端っこに追いやられて「植物園」が生まれてしまった。
ミントの葉を収穫するときは、茎のどのあたりから切ればいいのか? セージの葉は、バジルの芽は、パクチーに、ついにはスイカ。何を目指しているのか、と聞かれたら、来年以降の「旅人、農家もやる編」フェーズの来訪に向け、準備体操をしているのである、と答えるほかない。
土に親しい暮らしがしたいという考えは、いまに始まったことではじつはない。田舎の実家では、庭いっぱいの鈴なりのミニトマトを起き抜けに収穫するのが夏の楽しみだったし、おとなになってからは取材という名目で日本全国たくさんの農家さんのもとを訪れ、その生き方のすばらしさに触れ続けて憧れた。
島根県の群言堂、京都の坂ノ途中、岩手県の風土農園。「しぜんとともに生きる」ことのリズムやその色彩の美しさ、こころの奥まで風が届きそうな凛とした佇まい、ことば、つらぬかれた何か。憧憬を抱きつつ、「まだ私は風の人でいたい」と世界中飛び回って、一度目の着地がこの小さなベランダボタニカル。
ハーブティー用のセージとミント
おとなになるとは、きっとたぶん、こういうことも指すのだろう。「正解だろう」と感じていたけど、「まだ私には」とあえて手を出さなかった分野が「目の前にやってくる」。
夢を追いかけることもまぶしいけれど、夢があちらのほうから道の真向かいにやってくる時期も、あるのだと30歳を過ぎてやっと学ぶ時期がいま。不思議なもので、彼らは生きているのだから、して。
日々ひび、変わる。もし私に子どもがいたら、愛情を注ぐものが地球に大きくあって、また違う◎◎園をつくったろうか? 花や小さな緑の葉たちは、「昨日と今日が違うこと」を教えてくれる。咲き誇るまでだけが美しいのではなく、咲き誇ってのちに色を失い枯れ行く先で、「ドライフラワー」という形を得て、また違った時間軸でともに生きる。
世界に私は、カラフルを求めていたのだ。カラフルの求める先が、いまは自然が奏でる花びらに変わっただけ。夕陽も朝陽も、空や雲の移り変わり、海の透き通るその感じ、すべては私たちには作り出せず、そういうものに私は心動かされてカラダも動かし、マチュピチュだなんて遠い場所にまで昼寝をしに行ったりして。
変わらない、と思う。ひとは、大きくは本当に変わらないのだ。変わらないために、変わり続ける必要があること。変わり続けたとて、変わらない軸みたいなものをカラダのどこかに感じられること。
そういうことが、しあわせ、とか、心の安定、とか呼ばれたりすることもあるのだろう。気候穏やかな春の日々に宅配便の到着を知らせる足音が、何度も何度も、amazonやモノタロウで購入した有機培養土たちを運んでくれるとは。昔の私が想像もしなかった、ある春の日の過ごし方。
そう、世界はいま、まるですこしだけ時間が止まっているみたい。はざまで、平静をどうにか保ちながら、次の世界でひそかやに戦うための、準備と筋トレ。美しさを添える、花に木々。
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