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【妊娠日記】世界は深く、広くなる。狭くなんて、決してしない、ならない|予定日まであと 59days

あいも変わらず私たちは、家を一歩出れば越境できる、という事実をつい忘れてしまいそうになっていた。

バスに乗れば街は変わるし、電車に乗れば県も変わる。つい1ヶ月前までは飛行機に乗って徒歩では辿り着けない島にも行っていたのだし、今日友人は日本を出て海外で暮らすために飛び立った。

家からたった3つ分のバス停を越えただけ。それなのに、随分と遠くへ、違う街へと来たような気がした今日。

人並みの速さで歩くのがなかなかに難しくなったこの数週間は、私の距離感を知らない間に少しずつ塗り替えていたのだろうな。久方ぶりに訪れる美しい庭園沿いの道の木々は、桜が咲いていた頃の新緑の透明さから様子を変えて、夏の濃さへと移行する日々の最中にあった。

風が、吹く。南風が、頬を撫ぜる。膨らんだ妊娠8ヶ月のお腹に、無意識に手を置いていた。「風がきもちいいね。きょうはずうっと行きたかった図書館にいこうね」。小さな声でお腹の子に話しかける。

ひとりで出かけているのに、ひとりではない。私たち夫婦は年齢的に二人目を望むか、または望めるかは未知数だから、もしかしたら「ふたりでひとつ」の日々は、この人生で最初で最後になるかもしれない。不思議な時間。

君が胎児と呼ばれる間、できるだけ多く話しかけたいと思って生きている。私をお母さんにしてくれて、ありがとうね、と声に出すたび、嬉しさなのか何の感情なのか掴めないけど、涙がこぼれ落ちそうになる。たとえそれが家の外で、人目があったとしても。妊婦のホルモン、恐るべし。

***

「私」が、私と夫、私と夫と子ども、母と子、などなど、「私たち」になったとしても。私は私、の生きる美しさを、手放さすに追い求めて生きてゆきたい。

君のことを一番に考えたい。私が、私たちが、心から望んだ命。けれど同時に、君にも私にも、日々にも胸を張れる暮らし方もしていたい、とも思う。それがきっと、引いては美しい背中になってくれる未来に続くと信じたい、と考えるのは、出産前だからこそだろうか?

穏やかな妊婦生活にあって、やはり私は、旅が好きだ、と感じる瞬間に多々出会う。カメラを持ちたい。日々を文章におさめたい。近所の美しい緑の下に置かれたベンチ、その後ろ姿をかつてモロッコのオアシスで見かけた風景に重ねる。

数年前までは、こうやってフラッシュバックする旅先のいつかの景色を、数秒後には「あの国のあの街の、あの旅の景色だ」と判別できたのに、最近は少しずつ、記憶が色褪せてきたのを自覚せざるを得ない。写真や日記を見返せば甦るのが救いだけれど、記憶とは、なんと頼りないものか。

連れて、旅ができるだろうか。遠く、遠くへ。地球の裏側までも。遠くない未来に、まずは沖縄や台湾から始めて、タイやベトナム、イタリアやオーストラリア、キューバやメキシコ、ブラジルまで。

世界は深く、広くなる。狭くなんて、決してしない、ならない。帰り道に、夕暮れに出会う。毎日見かける夕暮れの意味を、もう一度考える。夕暮れとは一体何か、を君に問われたら、私はなんて答えようか、と。

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子どもが産まれるまでの特別な日々を忘れないために

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