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いいパン屋の近くに住む幸せ

数年ほど前に渋谷区のはずれにある富ヶ谷に住んでいた。代々木八幡と代々木上原と駒場東大前の3つの駅のちょうど真ん中あたりで、どの駅からも少し遠い。自宅から目と鼻の先には首都高速中央環状線の富ヶ谷インターチェンジがあり、トラックが行き交う三車線の広い道路の脇には新旧のマンションが立ち並ぶ。殺風景で、ここには何もない。そんなふうに言われることもあるけれど、私は富ヶ谷が好きだった。

じつは、富ヶ谷はパンの聖地なのだ。どの駅からも遠いからこそ、それらすベての駅周辺に点在するパンの名店に、徒歩で通える絶妙な位置にある。毎日食べても飽きない個性派の「365日」、噛むほど味わいが増す天然酵母の「ルヴァン」、ベーグルの奥深さを教えてくれる「テコナ ベーグルワークス」。これらが全部、代々木八幡駅の周辺に密集している。どっしりしたパンが食べたくなったときは駒場東大前駅を越えて「ル・ルソール」、素朴な味のサンドイッチが恋しくなったら代々木上原駅のむこうまで足を伸ばして「カタネベーカリー」へ。どれも連休中には列ができるほどの人気店だ。もちろん、休みの日に話題のパン屋に並んで、試すのもいい。でも、パン屋の最高の楽しみ方は、近くに住んで通うことだ。

パンは焼き立てが一番だ。その日に焼かれたフレッシュなパンを、その日の分だけ買って食べきる。シンプルだが、これがもっとも贅沢なパンの楽しみ方だ。旅行で立ち寄った先のパン屋だと、こうはいかない。ついつい、「もう来られないから」と多めに買って、翌日に持ち越してしまう。その結果、美味しかったはずのパンがぐったりしていることに気づかないふりをして、「大丈夫、まだ美味しい」とごまかしながら食べるはめになる。

自宅の周辺にパンの名店があれば、一人の食事が待ち遠しくなる。手軽なひとりご飯といえばコンビニ食だが、栄養バランスが偏りがちで、食べている間中「不健康なものを食べている」ことに向き合わなければならない。そのうえ、人生の貴重な一食を「適当にコンビニ」ですませてしまったという罪悪感が着実に降り積もっていく。それが、「毎日名店のパン」だとどうだろうか。パンも不健康であることに変わりはない。しかし、うまいものは体に悪いのだ。それを引き受けて、心から美味しいと思うものを食べるからこそ、魂が震える喜びがある。

富ヶ谷に住んでいた頃、お昼時は毎日のように、パン屋に通った。店のドアを開けると、ふわっと焼き立てのパンの香りが漂う。季節や時間帯によって少しずつ変わる個性溢れるパンは、眺めているだけで心を満たしてくれるきらめきを放っている。これは気軽に買える宝石なのだ。しかし、一期一会を大切にしなければ、目の前のパンを食べる機会は永遠に失われてしまうかもしれない。慎重に吟味を重ね、2つだけ購入すると、高まる期待を抑えながら足早に帰宅する。お気に入りのカップにコーヒーを注ぎ、とっておきのお皿にパンをのせる。そして、完璧なランチが始まる。

パン屋めぐりをしていたおかげで、近隣の他の店にも目が向くようになった。自家製全粒粉サンドウィッチ屋、ポルトガルのエッグタルト屋、カカオ豆ごとに味の違いが楽しめるチョコレート店、昔ながらの洋食屋など、お気に入りの店がたくさん見つかった。住み始めて2年もする頃には、頭の中に自宅から通える美味しい店マップができあがっていた。

富ヶ谷の次に住んだのは、イギリスのブリストルだったのだけれど、異国の地でもこの街歩きの感覚にずいぶん助けられた。滞在したたった1年の間に、自宅から歩いていける場所に、お気に入りのスポットを次々に見つけることができた。最初に出会ったのはやはりパン屋だった。シティセンターでヨーロッパの名店に選ばれたパン屋に出会った。そこを軸足のようにして、少しずつ足を伸ばし、美味しい店を探していく。アイスクリーム屋、チョコレート専門店、ハーブを効かせたブリティッシュ・ブレックファストのレストラン。食べ物の店だけでなく、劇場、科学博物館、手芸店、由緒ありそうな楽器修理店など、驚くほどたくさんの場所を「発見」することができた。

富ヶ谷のパン屋めぐりが私に教えてくれたのは、街を愛する方法だった。それは、私の生活や旅行の仕方をも、完全に変えてしまった。街に愛すべきパン屋を見つけ、そこを中心に少しずつ行動範囲を広げ、街全体をお気に入りの場所に変えていく。それはあまりに自然なことになり、もはや意識にのぼることすらなくなっていた。だからこそ、帰国して次に住む場所を決めるときに、重大な、取り返しのつかない過ちを犯してしまった。

引っ越してからすぐ、小さな違和感は感じていたのだ。注意を払っているはずなのに、一向にパン屋に出会う気配がない。コンビニも、スーパーも、八百屋も、和菓子屋も見つけた。ところが、肝心のパン屋が一向に見つからない。半年ほどしてから、観念して自宅周辺のパン屋を検索した。自宅周辺には、ぽっかりとエアポケットができたように、パン屋のマークが表示されなかった。私はようやく、パン屋のない街に住んでいたことに気がついた。

パン屋がない。その事実は予想以上にショックだった。この街はまだ出会っていないパン屋を隠しているだけなのだと信じていた。それなのに、最初からパン屋はなかったのだ。身勝手な失望だとわかってはいた。けれど、自分の住む街を愛そうとする気持ちが一気にしぼんでいった。

自分の過ちに気づいてからほどなくして、高級食パン店が街にやってきた。それまで食べていたパンと比べると、気軽に買える値段ではない。しかし、美味しかったら日常的に食卓に並べてもいい。そう思うほど、パンに飢えていた。このパンが美味しかったら、私は街の愛し方を思い出せるかもしれない。すべてはこのパン屋にかかっている。

そんな過剰な期待を込めて購入した高級食パンを、娘といっしょに試すことにした。娘はパクパク食べ進め、「あまくておいしいね」とほほえんだ。だけど、私は妙に悲しくなってしまった。たしかに美味しい。でも、このパンはあまりに均一で、均等で、均質で、戦略的すぎるのだ。「高級である」ということを納得させようとする上質さと、「美味しい」と認識してもらうための甘味料の甘さ。私が食べたかったのは「これが最高のパンだ!」というパン屋のこだわりがつまった、個性弾ける、いびつさをはらんだ、もっと自分勝手なパンだった。

ああ、あの夢のようなパン屋めぐりはどこででもできるものではなかったのだ。美味しいパンを毎日食べたければ、いいパン屋の近くに住むしかなかった。きっとこの街には、美味しいパン屋は来やしない。そんな失望を感じながら、私は街を愛することを諦めた。

その代わり、ホームベーカリーを購入した。愛すべき名店のパンには及ぶはずもないが、「美味しくあれ」と願ったパンを焼き立てで食べることはできる。私は自分の半径5kmを愛することに失敗した。だったら、半径5mを愛せるようにすればいい。美味しいパン屋は引っ越しで持っていけないけれど、半径5mにあるものだったら、どこまでだって持っていける。自分の街を愛せないのであれば、自宅を愛せる場所にすればいい。そう強がってはみたものの、次に引っ越すときは、やっぱりいいパン屋の近くがいい。

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