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「静けさ」はどう作っていくべきなのか

安西さんのこちらの記事を読んでから、「静けさ」についてずっと考えている。

静けさとはなんなのか。なぜ人は静けさを求めるのか。

だいぶ前に、日本へ初めて行って帰ってきた友人が「静かで驚いた」と言っていたのを思い出した。あんなにネオンや看板がごちゃごちゃしていて視覚的には「うるさい」のに、と。

その時はピンとこなかったが、今振り返るとこの静けさとは、「何も起きないこと」だったのではないかと思う。言葉が通じない苦労はあっても、あなたが間違っているとは言われないし、干渉されることもない。すべてが円滑で、止まって考える必要がないのだ。

日常と静けさはもしかしたら反意語かもしれない。実は先週家にずっと1人だったのだが、これまでに無く静かだったのにも関わらず、全く落ち着かなかった。やらなくても良い家事や、壁のキズが気になってしょうがなくなったり、小さな仕事のやり取りに「ああ言えばよかった」と数時間も後悔し続けたり。頭の中の声がうるさくてたまらず、結局は図書館や美術館に行き「静けさ」をもらっていた。

こう考えると、静けさのある場所は社会的に保護されている。どの国に行っても(私が知る限りでは)美術館も図書館も静けさが約束されているし、映画館で会話する客は白い目で見られる。

子どもができてから気づいたことは、こういう「静けさ」が如何に予測や制御の効かないものに対して不寛容なのか、ということだ。

日本の喫煙者が喫煙スペースに閉じこめられるように、ドイツでは子連れには美術館も図書館も決められた場所と時間があり、それを「はみ出す」と非難の眼差しを浴びる。先日、なんでもない日にある美術館にベビーカーで入場してみたが、静かにしていたのに、係員からも客からもマジマジと見られて驚いた。

比較的子供に寛容なイタリアでも教会はやっぱり別だ。イタリアで教会に初めて入った時の思い出は、息を呑む内装よりも「Silenzio~ (しーずーかーにー)」と低く響く神父さんの声の方がとても怖くて印象に残っているし、最近では身内の葬式中に子供がぐずりだして退出するよう促されたときは、結構びっくりした。

こういった態度を否定しているわけでは無い。日常を生きていくためには、静けさが約束されている場所は必要だし、そういう場所は公的である(誰でもアクセスできる)べきだと思う。そのためには、アクセスする人一人一人が尊敬を持ってその静けさを大切に守って行くべきだ。(どういう静けさを守っていくかは議論し更新していく必要はあると思うけど。)

ここでもう一度、日本の「静けさ」について考えると、少し違和感を感じないだろうか。日本という国全体が教会や美術館のような、「静けさの約束された場所」として見られているとしたら、かなり不自然で無理のある話に聞こえてくるのだ。

この評価に安易に乗っかってしまうと、皮肉にも不規則で不安定なものや人がどんどん生きづらい社会になっていくのではないか、と不安を覚えてしまう。

「静けさ」はそれに常にアクセスする人全員でその形を話し合って構築し、日々更新しながら保護していくべきではないだろうか。もちろんそれは誰にでもオープンであるべきだが、ただ体験して帰ってしまう人に標準を当てて設計するのは、違うと思うのだ。

Cover image by Evgeni Tcherkasski 

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