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コミュニケーションスキル

どこへいっても口をひらけば「コミュニケーションスキルが大事」といわれ、社員に求められる能力の筆頭にも掲げられている。
インターネットで検索すればその定義もわんさかとでてくるし、講座まで山ほどある。いまやコミュニケーション至上主義といっても過言ではない。

そうまでして定義づけられたり学習機会が用意されているのは、やはり「コミュニケーション」を履き違えたり悩んでいるひとが多いからのような気がしてならない。

社会での立ち位置と個人の立ち位置

わたしは社会人としてのコミュニケーションスキルはかなり高いほうだと自負している。
他者からの評価も高い。本社の人事からはよく他事業部の後輩のメンター役を頼まれたり学生さんのOG訪問対応を頼まれたりもした。そして「座持ちがいいから」という理由だけで、何度合コンに呼ばれたことか(大昔の話)。

とある分類(インターネット参照)にそってわたしのスキルレベルをまとめるとこうなる。

社会上(合コン含む)のスキルレベル
自己統制 ◎
表現力  ◎
読解力  ○(たまに深読みしすぎる)
自己主張 ◎
他者受容 ○(こと上司には必要以上につっかかる)
関係調整 ◎


ところがどっこい、個人の親密な関係づくりとなるとわたしはとたんにコミュニケーションスキルがガタ落ちする。

素(す)のスキルレベル
自己統制 ◎
表現力  ▲(言わない)
読解力  ▲(妄想が暴走する)
自己主張 ▲(言えない)
他者受容 ▲(相手を尊重しすぎる/またはシャットダウン)
関係調整 ◎


わたしの欠点であり悩みでもある。

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どうしてここまで差がついてしまうかといえば、やはり本質的には結構引っ込み思案なのだ。小学校の通信簿には毎年「おとなしい」「ひかえめ」と書かれていた。転校を繰り返し、社会でもまれていくうちにそれを徐々に振る舞い方を覚え、克服し、今の自分があるのだ。

もうひとつ、このギャップはおそらく置かれている立場の違いから生まれている気がする。
会社や仲間というコミュニティに所属しているときの自分の立ち位置、求められる役割はある程度決まっている。自分の意志というより役割上の意志が優先されるから考えや発言に迷うことがあまりない。
だが、個人間(家族とかパートナーの類)となると自分自身が立ち位置のベースになる。自分の軸というやつかもしれない。その指針がないと流されやすくなり自分を見失う。

個人間コミュニケーションになると、どういうわけか、わたしは途端にインプット先行でアウトプットがお粗末になる。
そして無駄に察しがよすぎて言うべきことを言わなかったり、相手の気持ちを慮りすぎて黙り込んだりする。そして自分の気持ちをおそろかにしてしまうのだ。

でも察するということは、時としてとてつもなく傲慢だ。
そして相手を思いすぎたり、自分の気持ちを確かめずにおろそかにし、言いたいことを伝えないことは、逆に相手への思いやりの欠如に匹敵する。

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茶碗蒸し

「階段をあがるだけで息があがるの」
とその年の正月があけて早々、そういった母をわたしは「年のせいかな」とさして気にもとめずにいた。
翌月になって父につれられ病院を受診した母は末期の癌におかされており、
すでに手遅れになっていた。29歳の冬のことだった。

告知することがまだ主流でなかった。なにも伝えないまま、そしてわたしもその診断を信じようとしないまま母を見舞って毎日毎日欠かさず病院へ通った。
母のために最大限の努力をしたい。わたしたち家族の意向を病院に伝え大部屋から個室へ移り、兄弟で寝泊まりしながら水を飲ませたり体をふいたり看護師さんの補助をした。

ただ病気と治療の副作用で、1ヶ月もしないうちに痰がからみつづけ吸引しないととれなくなり、喉も鼻も干からびたようになり、もう食事も満足にとれなくなっていた。水差しで口を潤すのが精一杯だった。

母は料理が上手なひとだった。専業主婦で外食もほとんどすることがなく、毎日毎日ご飯やお弁当をつくってくれた。
仕事で深夜遅くにかえっても必ず起きてきてくれ、あたたかいご飯を食卓に並べ、わたしの話を楽しそうにきいてくれた。

その母になんとかあたたかいおいしいものを食べさせたい。
今までたくさん美味しいご飯を毎日つくってくれた母になにかつくってあげたかった。

看護師さんからは「なにをあげてもいい」と言われていたので、わたしはきれいな瀬戸物に茶碗蒸しをつくって持っていくことにした。

器が割れないように、そして茶碗蒸しがさめないように、タオルでくるみ、部屋までもっていった。
これなら「おいしい」といって食べてくれるかもしれない、と想像してわたしは少しだけわくわくしていた。

病室の扉をあけると、昨日よりもっと苦しそうな顔をして母が目をつぶって寝ていた。
その顔をみた瞬間、わたしは茶碗蒸しをあげることはもしかしたらとても残酷なことなのではないかと考えてしまった。

もうずっと何も食べていない。
きっとおなかはすごくすいているはず。なにか食べたくてたまらないはず。
でも喉が痛いのか、消化器官が痛むのか、水を飲むのもつらそうで、なにも食べられないかもしれない。

そんなときに、茶碗蒸しを目の前においたらどう思うだろうか。

「茶碗蒸しつくってきたよ」

そう言いたかったけど、もしそこに食べ物があることがわかっているのに食べられない。
きれいな器にはいった茶碗蒸しが目の前にあるのに食べられない。そんな状況にさせてしまったら余計につらい思いをさせちゃうんじゃないか。

そう考えてしまって、わたしは茶碗蒸しを持ってきたことを母に言い出せず、カバンにしまったまま出すことができなかった。

冷め切った茶碗蒸しをみせることもなく家に持ち帰り、私はどうしてひとこと「食べる?」って言えなかったんだろう、と悔やんで泣いた。もしかしたら食べられたかもしれないのに。
もう一度作ってもっていこう。今後はちゃんと聞こう。
けれど母の容態は急激に悪化していき、再び茶碗蒸しを持っていくこともなく、その年の春、母はいってしまった。
病院へつづく道の桜がその年はいつもより長く長く咲いていたのをよく覚えている。

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「伝えない」ということ

「つくってきたから食べてほしい」
ってなんで自分の気持ちが伝えられなかったんだろう。
「つくってきたけど、いる?」
ってなんで相手の気持ちを確認しなかったんだろう。

そう聞くだけでよかったのに、自分で勝手に母の気持ちを想像し、彼女に判断させる機会をうばってしまった。
わたしはあれから茶碗蒸しが食べられなくなった。

「伝えないこと」は「伝える」以上に自分が傷つき、そしてそれ以上に相手をも傷つけてしまうこともある。

営業トークが下手でもいい。合コンでだまりこんでいてもいい。
大切なひとことを大切なときにちゃんと表現して相手に伝える。結果をおそれて言わないのではなく、ちゃんと相手とむきあって伝えあうことのほうがずっと大事。それがどうしてもできない。
うすうす勘づいていたけれど、それがわたしの人生の宿題なんだろう。

強烈な上司によって表層上も言いたいことが言えなくなり、休職することになり、やっとあらためてその課題を思い知らされた。
ずっと目をそらしてきた宿題を片付けるタイミングは今なのかもしれない。

※写真は近所の公園の花と母のふるさと


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