「トーキョートドージョートー」② 「この人を見よ」(ニーチェ)

「おまえが何者か、私にはわかっている」
「あの者は絶え間なく私を視つめていた。」

「おまえはその者がおまえを見たことに我慢ならなかったのだ…お前のすべてを見通したことに耐えきれなかったのだ」「そういう目撃者に私は復讐しようとしたのだ。」
                    
その者は「私という謎のうちの最良な部分もまた最悪の部分も説き明かした。私が何者であるかも、また私がなにをしたかも見抜いた。」

「人間の奥底を、底の底を見たのだ。人間の隠された恥辱と醜さのすべてを見たのだ。あの者は、私の内部の最も穢れたすみずみまで巧妙に入り込んだのだ。」
「一切を見た神…その神は死ぬほかなかったのだ…そんな目撃者が生きていることに、我慢することはできないのだから」
 ニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」

「わたしたちはいったいどこに行けば、あのまなざしから逃れることができるのだろうか」「わたしがもっと別の人間だったらよかったのに!」
「わたしはいまあるわたしでしかない。このわたしからどうすれば逃れることができるのだろうか?」「わたしは苦しんでいる。そしてそれは誰かのせいでなければならないはずだ」
(ニーチェ道徳の系譜学 第三論文)

しかし、ピラトは「この人」を「見よ」と叫ぶ。

「この人を見よ」
「どんな理由でこの人を訴えるのか」
「この男が悪事をしていなければ、あなたに引き渡したりはしません」
「私たちにはカエサルのほかに王はいません」

イエスは問われる。
「あなたは王なのだな」
「その通りです」「真理を明らかにすること、このために来ました」

「殺せ!殺せ!」 (ヨハネによる福音書)    

 そう言ってユダヤの祭司長たちは自分達の目の上のたんこぶとなるキリストの処刑をピラトに依頼した。彼等はキリスト=「健康な者にどうにかして暴力を加えることのできる抜け道」を探すしかなかったのだ。(道徳の系譜学 第三論文)圧倒的な不快感を克服するための最善の「抜け道」とは「生の感情をもっとも低い水準まで引き下げ」「情動の原因となる血を作る原因となるものをすべて退ける」ことだ。愛さない、心を動かさない=「反自然」=自身の欲望を否定し、欲望しないことを欲望する「機械的な」「知的なストア主義」。フーコーがどこかで言っていたが、辛い夢からの覚醒=現実が夢となるように、夢を見なくなる時、自身が夢となっている。

「催眠術のような方法で感受性、すなわち苦痛を感受する能力を麻痺させ」=生理学的には「催眠」「嗜眠」状態、心理学的には自己を喪失し無機質=AI的に「非人格」=「忘我」「無我」=「なにものでもないこと」=「なにものでもあること」となり(道徳の系譜学 第三論文)「誰に対してでも自分と相手を同一視してしまう態度」ある種の「自己喪失状態」、「自己を忘れる事」=「自己を誤解すること」「他人と自分の間の距離の忘却」を追求することで苦しみから解放される。(この人を見よ)、「自己脱却」とは「もろもろの象徴の力を借りて、自己を象徴的に表現しようとする意志」、自己はその時すでに「芸術品」、どんでん返しを引き起こす「デウス・エクス・マキ―ナ(機械仕掛けの神)」になっているのである。(ニーチェ 悲劇の誕生)

このような「抜け道」を通して「強いものたちにとっての災いは…もっとも弱き者たちから訪れる」(道徳の系譜学 第三論文)「あいつが悪い。あいつのせいだ。」そしてキリストは彼等「の代わりに」彼等「の罪を引き受けて」処刑される。キリストとは「罪なくして十字架に架けられた者」。ユダヤ人たち群集による「コーラス」は「内から外へむかって」「投射することによって緊張の高まった自己を発散」し(ドゥルーズ「ニーチェ」113、119)彼等の「生ける城壁」の役割を果たすとシラーは言う。(悲劇の誕生)

もう「現実の金閣」を燃やす必要もない。「心象の金閣」=「トーキョートドージョートー」が真実のものとなったからだ。(九段理江 東京同情塔 kindle版p80)しかしながら、我々がここで忘れてはならないのは「何か一つの理想の世界が虚構された時には、その分だけ、現実の世界の方でそれの持つ価値、意味、真実性を奪われている」ということである。(この人を見よ)言葉というコンクリートで塑像した「牧名沙羅の像」が「牧名沙羅の精神」を忠実に反映しているのか。(同上119)「この人(牧名沙羅)を見よ」しかし、「見られる」「目」は「見る」ことを怖れ「跳躍」を引き起こす。「神に似た蜥蜴(とかげ)」は自らの見たくない「尻尾」を切り、他者のせいにして反自然的「神」=「デウス・エクス・マキ―ナ(機械仕掛けの神)」となった。(この人を見よ)神は自身が生身の「蛇」であったこと(この人を見よ)生ける「病める動物」であったことを忘れてはならない。(道徳の系譜学 第三論文)「錯誤とは臆病に外ならない」のだ。(この人を見よ)

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