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「トーキョートドージョートー」と「東京都同情塔」by 九段理江

「こんなにも美しい木を見たことがなかったものですから。」
「今すぐ私の庭から出て行きなさい。木なんて立っていない」
「やがて彼が言葉を一言も発さなくなったとき、私は心から安心することができました」

東京同情塔  p99

ラカンは日本人が精神分析やカウンセリングを受けても無駄だと言った。というのも日本人とは「いくら言葉を尽くしても言葉の先に行くことができないからだ。言葉とはいつまでもただの言葉にしかならない。」(87)日本人にとって言葉とは本音と建て前、ウチとソトを使い分けするため「最初から最後まで嘘を吐くため」のもの。(88)犯罪者は「ホモ・ミゼラビリス」、刑務所は「東京同情塔」、そして「トーキョートドージョートー」へと改名される。しかしながら海外メディアの報道はネガティブだ。外来語から新しい言葉を次々と生み出して日本人が「自らの言葉を混乱させる理由は何なんだ?」(89)

カタカナは「婉曲的」で「角が立ちづらい」のでスノッブな日本人(コジェーブ)にはぴったりなのである。(13)ソーシャル・インクルージョン、ウェルビーイング…。「なんか全部が公平に、平等に、良い感じになっていくのかな」(70)「日本語とは縁もゆかりもない言語から」生み出された「新しい言葉」たち=カタカナが日本で増殖している(89)日本人は「何を覆い隠そうとしている」のだろう?(89)

 九段理江は「言葉と現実が離れ離れにならずに済む」方法を模索する。(67)真実、等号を愛するならば「語ってはいけない」。ただただ自然の前の傍観者として美と醜を静かに受け入れるか、数式の等号の美に逃避するしかない。でも、A=A、同一のものを同一とする等号の美にこだわり続ける。「考える自分」を「考える自分」を「考える自分」を考える。すると「女の子なのにかわいそうだね。女子なのに生意気だ」なんて言われ「動かぬ石の様に黙ったりする」(46,49)「現実はいつも言葉から始まる…この陸上世界を動かしているのは数学や物理が得意な人間じゃなく、口が上手い人間なんですよ。」(54)

「みんな言葉で」「自分の家」を建築する。(46)言語を使用すればするほど高い塔が建立され真実から乖離していく。塔内の密室の中では「支配欲の強さが」「常に彼女の話す言葉を見張って」おり「あったこともなかった」ことになる窓のない「監獄」となる。(46、50、66、57)あなたのお父さんは「ゴミ」、あなたは「ゴミ」の子と言われ(44)言葉とは「まるで男物の服を無理やり着せられる」ようなものでしかなく「言葉と現実がイコールで結ばれていると、感じることができない」(37)

ヒトとは「思考する建築」「自立走行式の塔」、そして「建築家」であり「破壊者」である(23、74)「器の中にどんな中身を入れ、思想を込めるか」(14)建築家の「意思がこの雑多な都市を導いていくのだ。そしてこれはただの比喩ではなく、実際に建築とはそうあるべきなのだ…建築は未来を方向付けるもの」であり、「でなければならない」器には醜ではなく美だけ=断定の「べきだ」だけを収めていたいのが建築家である(29-31、66)カントがいうように「自分の建造物をできるだけ早く建設」してしまい「転倒したやりかた」で(カント 純粋理性批判 B9)「である」「べきだ」と主張したもん勝ちなのだ。「各々の勝手な感性で言葉を濫用し、捏造し、拡大し、排除した、その当然の帰結として、他者の言っていることがわからなくなる。喋った先から言葉は全て、他者には理解不能な独り言。」(2、97)
 
 しかし、Twitter「独り言」がTwitter「独り言」で済まなくなり、独り言を「大きな声で叫ぶ」建築家の増殖と共に、「自分とは関係のないところで」「牧瀬沙羅」は「増殖」し、世界が「バラバラ」になる。(61、94)牧瀬沙羅は「東京に美と平和をもたらした女神」になったり「社会を混乱させた魔女」にもなり、「レイプされた数学少女」にも「レイプされてないのにレイプされたと偽告発する数学少女」にもなる。(91)

 そしてついにTwitterからXにネーミング変更が行われた。(92)今のTwitterには「X」概念が必要だった。遅ればせながらのネーミング変更と言えなくもないが「X」=「それでしかあり得ない正解」を導き出す「世界共通言語」としての「数式」の持つ正確さが啓蒙される意図を内包していたのではなかっただろうか。「レイプだったことをレイプではなかったなんて誰にも言わせない。牧名沙羅を牧名沙羅にするための」言語を探す数学少女がいる。(101-2)「AがBをレイプした」と「BはAにレイプされた」はイコールではないので苦しむ少女である。(6)数学少女は、「その行為を、誰もが認めるレイプとするだけの言葉を持っていなかった。だから彼女はレイプをされたことがないことに」「実際のレイプ被害者の痛みを知らないことになっている」。(7)こうして高い塔を建立し「天上に近づく」建築家は「地上の言葉」(現実)を忘れ「天と地が逆さに」なる。(94)つまり、建築とは「破壊」、つまり建築家=「塔の要請に応じ」「その中に自分を住まわせなければならない」(74)そこでは過去も未来も、内と外も、夢と現実もエッシャーの絵の様に反転する。(80)

 しかし「レイプではなかった」を「レイプだった」に変えられるのもまた言葉でしかない。(7)つまり「実現しなかった建築」「アンビルト」=「レイプだった」は現実のものとして実現させるだけの言葉の「キャパシティが現実の方になくお蔵入り」してしまったもの(37)そしてまた、真実か否か「考え続ける」「多くの疑問符を抱えた人間によって」「セメントで固める前の砂の様に脆い素材」でできた建築物=「かもしれない」「の方がよい」などでは「寿命までの数十年を」「この体を」「支えていくことは出来ない。」(29-31)つまり考え続ければ考え続ける程、躊躇えば躊躇う程、謙虚な建築物は建立されず塔は脆くも崩壊する。

「建築物」とは三島由紀夫も論じたように、「女性器」(27)「塔の出産を待っている真っ最中」の「妊娠中の母体」(30)「受容体でありすべての誕生の乳母のごときもの」(プラトン「ティマイオス」)。何でも可能な器=「絶対者」であり、建築家の理想=「ドローイングとはポルノ」でしかなく、一方通行のファシスト的幻想、それはユートピアでありディストピアとなる。(108)「共同作業って苦手なのよね。気持ち良くなるタイミングを自分でコントロールできないとストレスが溜まって仕方ない」(66)フロイトなんて要らない!木霊=自己「の声の中にだけ存在できる自分」が最高の自己のヴァーチャルカウンセラー。スラヴォイ・ジジェクも分析しているが、ヴァーチャルポルノ=電脳セックス(マスターベーション)の方がエロス的想像力が掻き立てられるなんていう自己愛的傾向の男女の増加も見られるそうだ。しかし、「ポルノを見ただけで『女を知った』なんて満足してほしくはない。」(10,108)一方通行の「空虚な穴」とは「現実の女」ではなく建築家=絶対者の「理想」=金閣が金閣であるのは表面に貼られた金箔故なのだが、それが剥がれる前に「現実の金閣」は燃やさねばならず、キルケゴールが愛する女レギーナとの実際の接近と実生活の無効化を実行(婚約破棄)したのも現実界のレギーナが彼の「エロス的想像力が滑らかに進むのを繰り返しゆさぶるトラウマの元になる障害」となり得るからだ。(ジジェク 幻想の感染)

 そんな絶対者のマスターベーションにおいては、異なる五感を持つ者各々が牧瀬沙羅について「ふさわしい形容」を一方通行的に与えたがり、彼女の「周囲に型枠をつくり、頭から生のコンクリートを流し込む」。(119)こうして他者の目を通した彼女=建築物=「伝記」が「コンクリートのように硬質な言葉」により出来上がり、私は破壊する者=「建築家」から破壊される建築物となった。(29)建築家が支配したいのは「現実そのもの」なのだ。(66)「既に私はもう何らかの外部にも内部にもいない。私自身が外部と内部を形成する建築であり、現実の人生なり感情なりを個々に抱えた人間たちが、私に出入りする」でも「彼等が何を言っているのか、もちろん私にはひとつも理解できない」(118-9)言葉とは寂しいマスターベーション=自慰であり独り言。「現実の女」=「あくまで、実際に手で触れられ、出入り可能な現実の女」(10、108)=「牧瀬沙羅」を交わり知ることはない。

「メイクラヴ」(108)とは共同作業で築き上げられるものであり「他人が出たり入ったりする感覚」(108)故に、ポルノビデオよりも生生しく「生きていて」面倒くさい。「好きな人には傷付いてほしくない」(66)異なる五感、異なる「鼻」「耳」、「手」など部分交換できない他者との生身のぶつかり合いが面倒くさいので他者との「差異」には言及せず「沈黙と中立的な微笑み」で「嘘を吐いている自覚さえない」嘘で多様性を同情し合う。(88)そこでは「ネガティヴな言葉」は禁じられ「言うべきじゃない」ことは「言ってはいけない」。(70、97)日本人が体臭のきつい外国人の彼に「臭い」なんて言ったらレイシスト、「内と外を使い分けながら和を重んじる国民性が日本人の脳みそをフリーズさせている」(77)との外国人ジャーナリストの批評もいまではレイシスト的でしかないのだ。「他人を傷つけることなく真実を伝える」ことがジャーナリズムにおいても難しく、報道のトラウマ効果についてまで配慮が必要な時代であるし、(77)自己存在を疑うなんて哲学的命題も「適切ではありません」とAIに御叱りを受けるAI的無機質な時代だ。(101)まさしく建築家=「絶対者」の支配と見張り下における「行き過ぎた多様性受容と平等思想のなれの果て」(77)。これこそが「生身」の圧倒的「破壊」、塔の中では皆が同じ「黄色いチューリップ」(88)「たまには生身の人間と喋らないとノイローゼになる」(105)

 私は牧瀬沙羅も知らない。九段理江も知らない。私の言葉で彼女らの言葉を代弁などできない。私の心は彼女の心に何処まで行っても到達し得ない。しかし、九段の言葉は「生生しく」生きていた。生身の人間の「現実的」コミュニケーションが「非人間的」「反自然的」、「非現実的に」「美しく」なればなるほど、「非現実的」小説において「人間的」生身=「自然」(現実)を感じるのは何故だろうか。それは森鴎外が現実を虚構として生き、夜を徹して小説に自身の「真」を詰め込まねば生きて行けなかったファシスト政権下に同じだ。人とは「逆立ち」して生きている存在であり、「死ぬまで病んでいる自然」(ヘーゲル)なのだ。

非言語的コミュニケーション=言葉を介さない生身のぶつかり合い=メイクラヴ=「現実の金閣」=自然は理想ほど美しくはないが同一に生き、嘘は吐けなかった。しかし、「創造的」動物=人間がAIの「創造者」となり創造物にそっくりになった。神は人を自己そっくりに創造したのに同じで、人はAIを自己そっくりに創造した、というか、それ以上に創造できない。人の創造物とは人そのもの。ショーペンハウアーによると、人の創造物とは人の「意志」、人の「生」、「霊」、「魂」そのもの。人の限界がAIの限界(ヴィトゲンシュタイン)、つまり神=キリスト=聖霊ではなく、人=AI(生霊)=神(絶対者)                                                               (ページ数:kindle 頁)


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