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バルザックにおける「代理性」について 


貧乏な法学生ラスティニャック
効率的に社会にのし上がる方法を説く
メフィストフェレス的 ヴォートラン

貴族に嫁いだ
アナスタジー・ド・レストー伯爵夫人の
お近づきになることは難しく、
青年ラスティニャックは
まずは
その姉妹である銀行家 ニュッシンゲン伯爵夫人
デルフィーヌに近づく。

アナスタジーとデルフィーヌは
元製麺業者であり
晩年は下宿屋で貧困生活を送る
ゴリオ爺さんの娘たちである

同じ下宿屋で生活を共にする
ラスティニャックから見れば
最初、ゴリオ爺さんは
美しい女性に入れ上げる、
ただの 「すけべジジイ」でしかなかった。
しかし、
ゴリオ爺さんはいわば
19世紀の「スティーブ・ジョブズ」、
ピケティの「21世紀の資本」に登場する
起業家の大成功例なのである。

小麦の値段の地域差に目をつけたゴリオ爺さん。
穀物それ自体で儲けることは禁止されているが

法律をつくった連中は頭が固いから加工品を禁止することまでは思いつかなかった。小麦はその最たるものだ。はっはっはっ!……わたしはそれに気づいたんですよ。今朝ね!  パスタ業界に一気の攻撃をしかけてやる

バルザック「ゴリオ爺さん」

小麦本体の値の格差ではなく、
その「代理」「化けた形」としてのパスタ
非同一的交換を通して
小麦の値の格差で儲ける。
儲けようと思えば
本来の形ではなく
化けの皮を被らねばならない。
それがまた

娘たちを貴族社会に送り込む持参金
と化け
娘たちのステイタス
手に入れたゴリオ爺さん

娘たちを通して
自身の野望を実現したと言える。

しかしながらその結末は
決して幸せなものではなかった。
持参金を次々に使い果たす銀行家の夫
に愛されてはいないデルフィーヌ。
ラスティニャック
彼女の愛人=ゴリオ爺さんの義理の息子として
ゴリオ爺さんの夢を叶えてやろうと努める

ぼくは、今夜、デルフィーヌさんに恋をしました」「おお!  わたしはあなたを愛さなければなりませんなあ、あの子があなたを好きだと言うのなら。」

同上

ゴリオ爺さんは
今度は
ラスティニャックを通して
デルフィーヌの幸せを願う

しかし
一文無しとなった
ゴリオ爺さんの末期の看病を夜通し行い
アナスタジーとデルフィーヌの
代理
葬式代を工面したのは
ラスティニャックを含む2名の学生たちだった

ゴリオ爺さんの危篤を伝えても
会いに来ようともしない娘たち

落ちた涙を娘たちのものと勘違いしたのだろう。
ゴリオは最後の力を振り絞って両手を広げ、
ベッドの両脇にあった学生たちの頭を探しあて、
その髪を乱暴に摑んだ。
そしてか細い声が漏れた。
「ああ!  わたしの天使たち!」」

同上

ゴリオ爺さんは
青年2人の
の涙と「錯覚」し
必死で掴んだ
愛する2名のものではなく
青年らの髪だった

ゴリオ爺さんが最期に求めたのは
ゴリオ夫人の髪の毛で編まれた小さな鎖と
アナスタジーとデルフィーヌの
繊細な髪の束の入ったロケット

灸を据えるときに外した
胸のロケットの不在に悲しむゴリオ爺さん
「返してやらなきゃ。暖炉の上に置いてあるよ」  

ロケットの
片面にはアナスタジー
もう片面にはデルフィーヌという文字が…
「彼の心が追い求めるものの面影」=代理

「ロケットが胸に触れると、老人は長い溜息をついた。見ていて怖くなるような満足の溜息だった。」

なのに
葬儀に参列したのは彼女らではなく
その代理としての
デルフィーヌとアナスタジーの嫁ぎ先の紋章が刻印された馬車

バルザックの醍醐味はエンディング
全ての世界が一気にひっくり返る
ラスティニャックは
ゴリオ爺さんを見送った後

ニュッシンゲン夫人の家に夕食に出かけた。

同上

もはや
デルフィーヌの家にではない。

谷間の百合」も
エンディングで大どんでん返しを迎える

ナタリーに
「一方の女性が他方の女性でないこと」
を延々と物語り(愚痴り)
モルソーフ夫人であると
同時にダッドレー夫人
を理想として
だから「ナタリーが良いのだ」と
締めたかったのだろうが
その姿勢=これ自体が「谷間の百合」という物語
そのエンディングで

「あなたは女というものをご存知ないのでしょうか。女というものは
あるがままのもの、
それぞれの
長所にともなう欠点を持っているもの」
と責められ
「そのどちらでもない
このわたしなどどうなりますやら。」
とナタリーに去っていかれる。


バルザックの登場人物は皆 
虚像 
自身の反映
誰かの鏡
パズルのピース
交換可能な代理=部分
のつぎはぎでしかない

ヴォートランは決して
ヴォートランではない
のだ
でも
あんたはあいつだ、こんな真似ができるのは
あいつしかいない」
どんなに変装しても
目は真実を語る
ヴォートランの目
ヴォートラン以上でも以下でもない
ことしか示さない

ヴォートランは
浮かれ女盛衰記(上)」において
成長して
フランス貴族社会に復讐しようとしている
ラスティニャックの前に再び現れる。

「今日び、意見なんてものがありますかね。いまじゃもう利害関係しかありはしませんよ」

バルザック「浮かれ女盛衰記」(上)


ゴリオ爺さんの死を通して
成長した(?)
匿名性の高い
ラスティニャックでさえ
仮面の人物を
すぐにヴォートランだと見抜いた

「ゴリオ爺さん」で
ラスティニャックを通して
自身を表現しようとしたヴォートランは
今度はラスティニャックに
リュシアンになれと命令する。

「まあ《彼》だと思ってやりたまえ」」

同上

ヴォートラン
=ジャック・コラン

という偽名で生きる
醜陋な脱獄囚は
再び
代理を立て
今度は
カルロス・エレーラ神父として
リュシアンの前に現れ (in「幻滅」エンディング)
「異常な愛情」を注ぎ

「リュシアンのうちに、美しく、若く、貴族となり、大使の地位に出世したジャック・コランを見て」いる

リュシアンは「可視化された自身の魂
「リュシアンのうちに吸収され」てしまった自身

リュシアンの恋愛が自身の恋愛
リュシアンの野心が彼の野心
リュシアンの成功が己が成功
代理を立てて」
「グランリユー家で晩餐の饗応にあずかり、
身分高い女性の小間に忍びこむ…」
いわゆるドッペルゲンガー(二重人格)

1人の男を真実愛したことのある女性なら、
あるいは理解できるだろうか。
愛する男の魂の中に自分の魂が移っていく感じ…
その人生をただ隣で共に生きるのではなく、
もはやその男として生きるという感覚

バルザック 浮かれ女盛衰記 第4部


そして
リュシアンは
カルロス・エレーラ神父
=ジャック・コラン

性を暴くことを拒否し
誠実生きるため
を選ぶ

ヴォートラン=
ジャック・コラン=
カルロス・エレーラ神父は
こうして

ゴリオ爺さん」で
ラスティニャックのヴィクトリーヌへの恋を潰し

幻滅」で
虚栄というジャーナリズム=メフィストフェレスの
誘惑に負けた
移り気なリュシアンは
純に愛した女優コラリーをも失い

おれはひとりだった。こんどはふたりになる

浮かれ女盛衰記」において
カルロス・エレーラ神父による同性愛的父性愛
エステルをも奪い盗られる。
リュシアンはエステルを愛していたのに
またもやその愛を貫けなかったのだ

「あの遊女(エステル)のことはあんまり愛しすぎていたな。いやはや、そうでなかったらあのせがれはすっかりおれのものだったのだが。」

浮かれ女盛衰記(下)

悪いのは
ヴォートラン=
ジャック・コラン=
カルロス・エレーラ神父
だけではない

ラスティニャック
=リュシアンも
自分が無さすぎたのだ
だから
彼ら」は
ゴリオ爺さんになり
(ゴリオ爺さんの気持ちに入りすぎ)
ヴィクトリーヌを失い

匿名性」という社会に飲み込まれ
コラリーを死なせてしまい (in「幻滅」)
その教訓を生かしきれず
踏板」になることを拒んだ
娼婦エステルまで自死に追い込む

あなたの運命としては、結婚は必要な要素です。だけど私は神様のお言いつけで、あなたの御運の伸びるのを邪魔してはならない身です。あなたが結婚されるということは、私としてみれば死にあたります。でも私、あなたにいやな思いをおさせしないつもりです…お願いがたった一つあるの。私をだまさないでもらいたいの。私の人生は願ったり叶ったりで、一八二四年、あなたにお会いした日以来今日までの私は、十人の仕合せな女の生涯に含まれている幸福よりもっと沢山の幸福にあずかりました。ですから私を、あるがままに、弱いけれど強くもある女と思って下さい。『僕は結婚するんだ』とおっしゃって下さい。そうなれば私のお願いはただ一つ、あなたから優しいお別れの言葉をかけて頂きたいということだけ。それでもうあなたのお耳に私の話が入ることは決してありませんわ……


「浮かれ女盛衰記(上)」


このエステルの「意志表示の真実さ」を
リュシアン

ラスティニャックが
持ち合わせていれば…

でも
ゴリオ爺さん

ラスティニャック

リュシアン

ド・リュバンブレ(リュシアンの貴族名)

ヴォートラン

ジャック・コラン

カルロス・エレーラ神父


かれら は かれら 以上でも以下でも
あり得なかった
非同一性は同一性に到達できなかった
「おれはひとりだった。こんどはふたりになる」

しかし!!!

ヴィクトリーヌ(「ゴリオ爺さん」)は…
カナリー(「幻滅」)は…
エステル (「浮かれ女盛衰記」)は…
そして
ナタリー(「谷間の百合)は…
最初から最後まで自分であった
自分が自分であることを選ぶ強さを持っていた。
「女が美しいのは、女が男に似ているとき」
反対に
「リュシアンは女のでき損い」…
         (「浮かれ女盛衰記(下)」)

オスカー・ワイルド
リュシアンの死を人生最大の痛恨事と呼んだが
同性愛とは同一性に到達できない自己愛
自己の欠如たる鏡の自分=ドッペルゲンガーを愛する
非同一性の非同一性への愛情
一つの変身の形なのかもしれない

「この私は、ありとあらゆる邪悪な感情。
あの子は、善、高貴、美、崇高、だったのです。」
              (浮かれ女盛衰記(下)

そして我々が忘れてはならないのは
かれら

バルザック自身だということ
全てを反対にする「無意識」=情念 パッション
受苦性という動物磁気
希望=意志を真実としてしまう様を
赤裸々に描き出した「人間喜劇」
フロイトが「無意識」のパラドクス性を発見する遥か以前のこと
バルザックは「物語」を書いたのではない
現実を観察し
現実にその「対応物」=「物語」を見つければよかったのだ

社会的自然が、それこそ多くの偶然、それこそ気紛れな景況の紛糾を内部に蔵しているため、案出者の空想力はたえず後手をひくのだ。真実なるものの大胆さたるや、芸術には禁ぜられている組合せにまで高まる。それほどその組合せは、作家がこれを緩和し、刈り込み、切りおとさないかぎり、本当らしくない、乃至、つつましさが足りないものである。」

—『浮かれ女盛衰記(下)』バルザック


真実
真実らしさは
真実
真実らしく見せない物語を通して
真実
緩和することで
表れる

対照的に
非ー自然
をもって自然完全性をもたらす
ジャン・ジャック・ルソー遊び


マリー・アントワネットの専売特許ではない

この新品の模造品が、大金を投じて造られた自然の中で決して偽物に見えないように、わざわざ現実のあばら家の貧しく荒れ果てた外見を模倣する。ハンマーで叩いて壁にひび割れを入れ、漆喰をロマンティックに剝ぎ落とし、屋根板は何枚か取り外す。ユベール・ロベールは板に人工的な割れ目を作り、煙突を黒く燻して、全体を古びて朽ち果てた感じに見せかけた。

—ツヴァイク「マリー・アントワネット(上)」 


王政が血祭りに
マリー・アントワネットの
同一性が非同一性の
非同一性が同一性の
極点まで祭り上げられることに成功し
ルソー遊び遊びでなくなった
人々は武器を捨て
ペンで人を殺す」ことを学んだ (in「幻滅」)

メディアとは「媒介」そして「葬送
を意味する。
映画にもなった
バルザック「幻滅」のメインテーマだ

ルソーを読んだか?」「ああ」「あの一節を憶えているか?  ルソーが読者に、もしパリから一歩も出ず意志の力だけで中国にいる年老いた役人を殺すことができ、それで金持ちになれるとしたら、きみならどうするかと訊ねてくるくだりだ 」「あったな」「で、どうする?」「そうさな!  目下、三十三人目の役人を料理中」「ふざけるなよ。いいだろう、じゃあ、それが可能なことだと証明され、おまえが頭をちょいと動かすだけで、それができるとしたらどうだ?」「相手はほんとに年寄りの中国の役人なんだな?  まさか、ないない!  若かろうが、年寄りだろうが、中風患者だろうが、健康体だろうがもちろん……うへえ、まいったな!  やらない、やらないよ」「おまえは真っ当なやつだ、ビアンション。しかしもし女を好きになり、その女のために殺さなければならなくなったらどうする?  そしてその女のために、その女のドレスや、馬車や、ようするにそういう酔狂すべてを叶えてやるために金が、莫大な金が必要になったら?」」

—『ゴリオ爺さん (光文社古典新訳文庫)』バルザック著


同一性が同一性に到達できず
他者性=非同一性を媒介に
非同一にされる
「混沌」を通しての
秩序=同一性の追求を
壮大な非歴史的
歴史「物語」という
パズルの組み合わせ

描ききったフランスバルザック


バルザック作品にも(ex「幻影」)登場する
意識の流れ」小説の先駆とも呼ばれる
バルザック同時代の英小説家は
遊び」でなくなった遊び
遊びで批判
秩序を解体するところまで解体し
物語性 (方向性)を否定することで
救おうとした
ロレンス・スターン

正反対のポストモダン的 非物語性をとりながら
バルザックと同じことを描いている

とことんの解体性
非同一性=無意識もまた
隠れた同一性の追求を映し出している
彼の
トリストラム・シャンディ
後にフロイトが論説した
「無意識」のパラドクス
ジョン・ロック「人間悟性論」をメインテーマに
かくも軽快
そして 深遠に…
語らず 語る
上記 挿し絵はスターンがその追求を
絵にしたもの

あなたはシャンディー夫人(ローレンス・スターンの小説「トリストラム・シャンディー」の女主人公)のような女と結婚なさったらいいと、わたし思いますの。

バルザック「谷間の百合」

バルザック「谷間の百合」のナタリーが
このように
去り際に吐き捨てるように言った
シャンディ夫人とは
非同一性
誰でもない
…人
他者の「注文通り」 (バルザック「谷間の百合」)
ジョン・ロックが上記書で
無意識は
何の脈絡もない観念同士の不運な連合
でしかないと言っている通りの
他者性
スコットランドのヒューム
人格を「知覚の束」だと言っているように…

あの賢いロックは、明らかにこのようなことの本質を大概の人よりもよく理解していた人で、かかる不思議な観念の結合が、偏見を生み出すもとになる他のどのような源にもまさって、多くのねじれた行為を生み出していることを確言しております

—ロレンス・スターン,「トリストラム・シャンディ」 上 (岩波文庫)朱牟田 夏雄訳


他者とは

自身の「代理」「鏡」「希望」でしかないようなのだ

ということが
物語」として提示されたとき
ひとびとの間には「抵抗」を引き起こさず
人々は物語を楽しみ
バルザックやスターンは有名になったが
「物語」ではなく
それが
真実」だ

フロイトが後に語ったとき

この不快な「アウトサイダー」に対抗して一致して防禦したのは、大学だけではなく、また旧式な神経科医の一味だけではなかった――それは全世界であり、古い世界の全部、古い考えかた、道徳的「因襲」であり、それは彼の暴露を恐れた時代の全体であった。徐々に彼に対する医学界のボイコットが結成され、彼は患者を失った。

シュテファン・ツヴァイク「昨日の世界2」

スターン氏は
物語の方向性を喪失させることが
他者から身を守る方法であると知っていたのだ

わざわざ労をいとわずにこの書物のようなもてなしをしようという場合に、ものの配列の順序をあやまって、その結果世の批評家とかすぐれた趣味を持つ紳士方に悪口の口実を与えるくらい馬鹿げたことはありませんし、また、そういう人たちを仲間はずれにしたり、あるいは、これもそれに劣らず相手を怒らせることですが、他の客にばかり注意を払って、まるでその席に職業的批評家などという人種は一人もいないかのような振舞に及んだりするくらい、その手合に悪口をいわせる結果になることもありません。   私はこの両方とも、ちゃんと用心しています。まず第一に私は、六つほどの場所を特にその人たちのためにあけておきましたし、 また第二には、一所懸命にあの人たちの機嫌をとるのです。 やあ、皆さん、お手に接吻をおゆるし下さい、どんな客にしても皆さんの半分の楽しみも私に与えることはできやしません 本当にお目にかかれて光栄です

ロレンス・スターン,
「トリストラム・シャンディ 上 」朱牟田 夏雄訳

よって
フロイトは
親→子への虐待(有名な「誘惑理論」)の
方向性を反転させ
子→親への性的妄想=嘘
子どもは嘘をつくとして
(親を愛しているが故に)
かの有名なオィディプス・コンプレックス理論
生み出した

無意識は
真実ではなく
反転された
神話を求めているからだ 

分別ある人びとは Cに、あるいは Lに、あるいはリュバンプレに、いやおそらく三人ともに道理があると考えるだろう。  神話というものはたしかに人間が発明したもっとも偉大なものの一つだが、これによると《真実》は井戸の底にあるということになっている。

「幻滅(中)」バルザック

リュシアンを思い出そう
彼は
父たる カルロス・エレーラ神父が
ジャック・コランであることを否定し
真実に忠実であるが故に
死を選ぶしかなかったのだ

フロイトも晩年
学会、社会からも追放され
亡命先で孤高に「モーセと一神教」etc.
の執筆を続けた。
そのメインテーマは
ご存知の通り
バルザックの「幻滅」に類似して
「群集心理」についてであった
モーセは
皆さんご存知の通り
モーセではなかった
モーセは誰かの「代理」であった

全世界の反対に対しても不撓不屈であり、自分一個人については誰よりも慎み深いが、自分の学説のどんな教義に対してもそれを守る闘争の覚悟を決めており、自分の意識において守ろうとする内在的真理に対しては死を賭しても忠実である一個の人物であった。彼よりも精神的にたじろぐことのない人間を考えることはできなかった。フロイトはいつでも、はっきりと仮借なく言ってしまうことは人々の不安や当惑を起すと知っているときであっても、自分の考えていることを敢えてはっきりと言ってのけた。自分の困難な立場を、ほんの少しの――ただ形式的なものであれ――譲歩によってでも、容易なものにしようとしなかったのである。私は確信するが、もし彼が彼の理論を慎重に装い、「性欲」と言うかわりに「性愛」と言い、「リビドー」と言うかわりに「エロス」と言い、露骨に言わないで、仮借なくいつも最後の結論をはっきりと立てることをしない気になりさえしたならば、あらゆるアカデミックな立場からの反対に妨げられることなしに彼の理論の五分の四までを言うことができたでもあろう。しかし事が学説と真理とに関するかぎりは、彼は終始強硬であり続けた。反対が烈しくなればなるほど、彼はいよいよ決意を固めるのであった。精神的な勇気――それは、世にある英雄主義のうち、他人の犠牲を要求しない唯一の英雄主義であるが――の概念の象徴となるべき姿を求めるときには、私はいつも眼の前に、直視し冷静に眺める黒い眼をもったフロイトの、あの美しい、男らしくきっぱりとした容貌を思い浮べるのである。

シュテファン・ツヴァイク 「昨日の世界2」

誘惑理論の「代理」としての
オィディプス・コンプレックスが
フロイト最大の譲歩だったと言えよう
反して
牧師であるロレンス・スターン氏は
わきまえていた
とでも言えようか…😑
他者になること
誰でもないこと
モーセがモーセでない

語らず語ること
真実としてではなく
物語として
方向を持たず
混沌をもって
秩序=方向を語る

「ゴリオ爺さん」「谷間の百合」「幻滅」「浮かれ女盛衰記」「あら皮」…それぞれの物語をパズルピースとして非歴史的に構成した歴史物語作家 バルザックも凄い

がスターンは「笑える」
言わずして言い
彼の描く 
線一本
悲しみでも
代わりになぜか
笑える
のだ。

天才だ‼️❣️

最後にスターンの一言

脱線は、争う余地もなく、日光です。

ロレンス・スターン「トリストラム・シャンディ 上 (岩波文庫)」朱牟田 夏雄訳

私はバルザックについて書いていたが
実は
バルザックは「代理」?
ほんとうは
スターンについて書きたかったのかもしれない😆
昨日も
某氏に喫茶店で必死に語ってたのは
「トリストラム・シャンディ」についてであった
「トイレ行ってくるわ」と言われて
話を切られたが…🤣






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