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読後感想 岡田淳著『だれかののぞむもの』〜こそあどの森の物語シリーズより〜

去年高校生になった末っ子。体調不良を押して志望校に入れたのだけど、やはり体調が快復せず、結局退学することになった。

一番がっかりしているのは本人だろうと思っていたら、意外に捌けた様子で、「高卒認定資格を取る」と言い、目下自学中。

本当は悔しかったんだろうけど、そこで「かわいそうに」みたいなことはもちろん言いたくなかったし、言ったところで本人が喜ぶわけもないから、ぼちぼち頑張ればいいんじゃない、とだけ言って、今に至る。

8月に試験があるらしく、「もう直前」と言って、最近はずっと教科書や参考書を手放さず頑張っている。「もう直前」って、まだ2ヶ月もあるけど?

この生真面目さ、「いったい誰に似たんだ?」と、親の方がびっくりしているが、きっと何かに集中したいのだろうな、とも思い、そっと見守っている。

「こそあどの森」シリーズ

そんな末っ子と、どういう経緯か忘れたが、小学校の図書館での思い出話をしたことがあった。

どんな本が好きだったとか、初めて借りた本はなんだったか、とか。
私たち、意外と本好きだったみたいで、けっこう盛り上がった。

例えば、私が強烈に覚えていたのは「おしいれの中のぼうけん」だった。
あの「ねずみばあさん」が怖くて、それからしばらくは押し入れに近づかなかった記憶がある。

末っ子は、「なんたって『こそあどの森』シリーズ」だったそうだ。

これこれ!と言ってネットで画像を出してくれた。

髪の毛が逆立ってる男の子の絵。

あー、これ、めっちゃ覚えてるわ。よく読んでたよね。

いわゆる自閉症気味のスキッパーという男の子が主人公で、彼が住んでいる「こそあどの森」の住民のこととか、そこで起こる不思議な話なんかが全部で12冊のシリーズにまとめられている(最近関連本が1冊出版されたので13冊ですね)。

ちょっとアタゴオル物語を彷彿させるような、不思議なおとぎばなしみたいな世界観。

例えば、ガラス瓶が半分土に埋まった家とか、やかんの格好をしてて、注ぎ口がえんとつになっている家、巻貝の家、と家の見た目だけでもちょっと不思議な感じなのだ。

家だけじゃなくてこそあどの森の住民たちも、一風変わっている。

「こんな人いるよね!」という小うるさいおじさん風のポットさん(でもネズミっぽい)、ポットさんの奥さんのトマトさん(ポットさんよりかなり大きい)、ツリーハウス風の家に住んでる小説家のトワイエさん、巻貝の家に子供だけで住んでいる双子...とこんな感じだ。

この際だから、全部買おうよ、と末っ子に言われたので、思い切って大人買いした。

毎晩寝る前にちょっとずつ読もう、と思ったのに結局、1日1冊ずつのペースで読んでしまって、なんかもったいないことをしたような罪悪感(苦笑)。

作者の岡田淳さん

作者の岡田淳さんは小学校の美術の先生だった。このこそあどシリーズだけでなく、多くの絵本や児童書を書かれている。

学校で、いろんなお子さんを見てこられたのだなー、というのを随所随所に感じる。想像だけど、スキッパーみたいな子もいたに違いない。

どのエピソードも素晴らしく、さまざまな出来事に出会って、スキッパーが成長していく様がすてきだし、きっと子どもなら、大いに共感できると思う。

「聖書」並みのスケール感のものもあれば、幻想的で美しいエピソードもあるし、人生の悲哀がこもったものもある。

「だれかののぞむもの」

そんな中でも、一番印象深かったのは「だれかののぞむもの」。
だれかののぞむ、あらゆるものに変身できる「フー」という子のお話。

フーは生き物の心を読むことができて、その生き物が感じたように「こういえば喜ぶ」「こう言ってほしい」の通りに行動するという性質を持つ。

だけど、誰かがふと思ったことに知らず知らず反応して、別の人に変わっていくうちに、自分は「本当はなりたくない」ものに変わってしまうこともある。

でも、あまりにずーっと他人の望みに合わせて変化していると、元の自分がわからなくなり、止められなくなってしまう。そして、そのうち心が病んで死に至るーー。

そういう恐ろしいループにハマってしまったフーが、ある日こそあどの森に迷い込むという話だ。

お話自体もすごくユニークで印象深いんだけど、何より岡田さんが「どうしても書かなきゃいけない」という切羽詰まった想いを持って書かれたものなんだな、ということをひしひし感じる。

やはり、そういう生徒さんがいたのだろうか。

外から自分を見ている目

ふと自分を意識した時に、「外から自分を見ている視線」で捉えていることがある。

具体的な誰かではなく、外から自分を見ているような視線。

鏡を見ている自分のようでもあり、全く見知らぬ誰かの視線のようでもあり、過去の親しい友人の視線のようでもある。その視線が満足するように、いつの間にか振る舞ってしまう。

そんなことってないだろうか。

フーと自己中。真逆なようで実は一緒

例えば、あなたのそばにものすごく自己中で、自分の言い分を絶対通そうとする人がいるとする。その人は当然、自分のことしか見ていないし、他人のことは一切、お構い無しに見えるだろう。

人は、一人では生きていけない。

本来社会的な動物である以上、傍若無人であることは、ある意味不自然な行動だ。だから、過剰な身勝手さ、傍若無人さは、自分の内なる直感ではなく、もしかしたら「外から自分を見ている視線」を意識し、それに従った結果ではないか、と考えた。

今までは、そういう傍若無人さんは、例えば、フーのような他人の望むものになろうとする人とは真逆な生き物だと思ってきた。

でも、そう考えると、フーと傍若無人さんは、同じように根っこに「外からの視線」を持っているのではないだろうか。

自分の要求に従う自然さ

誰でもの望むものになるフーと、傍若無人さん。

自分を外からの視線でしか見ることができず、いつも他の誰かを意識せずには振る舞えない。外からの視線を意識していつだって「演じている」。

それだって、時には必要だ。

でもそれには、まずは、自分の内側にある「生きる直感に従って振る舞う」という、生き物本来の性質を保っていることが条件だと思う。

例えば、モグラが穴を掘るのは、その方が木の根っこに空気が行き渡るから、と考えているわけではなく、自分自身が生きるために掘っている。
さらに、逐一生きるためだよね、と思いながら掘っているのではなく、掘らずにいられないから掘っている。

それが、自然界だろうし、生きとし生けるものの性質だと思う。

生き物の要求は、だれかののぞむものなんかになろうとはしていない。
また、一つの個体だけ生き残っても、進化発展しない。

一途にだれかののぞむものになろうとするのは不自然だし、過剰だ。
逆に、傍若無人に、自分のことだけを考えて生きているのも、また過剰。
そんな人ばかりの社会は、病んだ社会と言わざるを得ない。

「誰かの望み通りに」もしくは「傍若無人に」振る舞う前に

誰かの望むものがわかる人は、思いやりがあると喜ばれるかもしれない。
もし、子どもが誰かの望むように行動すれば、「優しい子」とか「思いやりのある子」と褒められる。

でも、一度褒められたら、褒められるという目的のために行動しないだろうか。子どもであれば、人の顔色ばかり伺っている子どもにならないだろうか。

人が健全に、誰かの望むことをできるのは、本人が自分自身の望むもの、自分自身のあるべき姿をちゃんとわかっていて、その上で、他の人の望むことをしてあげられる場合だけではないだろうか。

また、傍若無人さんにしても、本当に人を困らせて喜ぶ人は、ほとんどいないのではと思う。本当に自分の望むことは何なのか?それをしっかりと見つめられる環境が必要だろう。

もし、自分の望みが埋もれてしまっているなら、掘り起こして、誰にも襲われる心配のない日なたに置いて、育ててあげなくてはならない。

周りも本人も、そのような生き物としての直感を100%信じ、育てようとすることが何よりも大切だと思う。

なりたい自分に

だれかののぞむもの」は、外からの視線に過剰に依存し、自分を演じてしまうことへの警告であり、生き物としての内なる直感を信じて、なりたい自分になってほしいという強い希いでもある。

私たち人間は、常に自分自身に言い聞かせなければならない。おそらく、いくつになっても。

なぜなら人間は油断するとすぐに外からの視線に身を委ね、世間のバイアスに自分を合わせてしまうから。

「フーにおもどり。お前のなりたい形におなり」

























































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