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シェイクスピア『テンペスト』あれこれ

何年か前に坪内逍遥訳の『テンペスト』を古本屋で見つけて購入。
この前ふと再読したくなって読んでみたら、落語みたいな躍動的な台詞に感激しました。旧仮名遣いも嬉しい。

明治の人の翻訳力

私が大学生だった頃は、確か小田島雄志訳が新しくて面白いと言われていたような時代でした。確かに小田島訳はイキイキしていて親しみやすく、従来のシェイクスピアのイメージが大きく変わった記憶があります。

その当時の空気感は、明治の翻訳家の訳は「古臭いだけでなく、間違いも多い」みたいな認識だったような気がします。

ところが実際、坪内逍遥の訳は凄まじく面白い。
むしろ、こちらの方がシェイクスピアの世界を、文化の違いや背景も考慮した上で、忠実に翻訳しているんじゃないかと思います。仮に文法的なミスがあったとしても、そんなものは軽く凌駕しているなーと。

それは、世界に『源氏物語』を紹介したアーサー・ウェイリーが、一部の英米文学者からこき下ろされたことを彷彿とさせます。

比較文学の大御所、平川祐弘先生も絶賛されているように、日本の文化の本質を捉え、そこまで含めて翻訳したアーサー・ウェイリー訳が、最終的には最も素晴らしい英訳版だと思います。


シェイクスピア全集を入手!

坪内逍遥訳の、他のシェイクスピアも読みたくなって、「日本の古本屋」で調べたら、40冊入の全集発見。しかも昭和8年の初版です。

シェイクスピアのみならず、日本語の美しさも味わえる。しかも、付録の小冊子の寄稿者もまた豪華。

西脇順三郎、三木清、武者小路実篤、小林秀雄…。当時、一世風靡した凄腕が勢揃いです。

そして、こんな文化遺産が5,500円!安すぎません?買う側はありがたいけど、あの世からお叱りを受けそうです(苦笑)


即刻家宝に決定です(笑)

デレク・ジャーマン監督『テンペスト』

ついでと言ってはこれも怒られそうなのですが、
立て続けに、鬼才デレク・ジャーマン監督の『テンペスト』(1979年)を。

学生の頃映画館で観て以来、約30年ぶりです。
あらためて見て、狂気にフォーカスした、その作品作りの妙に唸りました。


台詞は原典通り、ゴシック建築とパンクな衣装、キャスティング、多少の順番入れ替え。それだけであそこまで独自の世界を描けるってすごい。
本家本元、エリザベス・ウェルチのストーミー・ウェザーも圧巻です。

デレク・ジャーマンの見出した「狂気」

デレク・ジャーマンは、『テンペスト』の狂気を表すために、ありとあらゆるものに対して「ちょっと何かがずれている」様子を演出しています。

例えば、ゴシック建築の瀟酒な部屋の中で、白い、ちょっと現代風の衣装を着た囚われの身の王子様が、足枷をつけて薪を割る。


王子に見染められる大公の娘、ミランダは、幼い頃に父と島に流されたため、生まれてこの方、人間といえば父親しか見たことがない。ゴシックなドレスに身を包んだミランダの仕草や笑い方は、まさにパンクそのもの。

(ミランダ役は、シンガーで、ロバート・フィリップのお嫁さんのトーヤ・ウィルコックス。偶然ですが、さっきこんなページを見つけました。相変わらず、健在です笑)

ミランダと王子の睦まじいシーンでは、ゴシック建築の踊り場のようなところで、ミランダがフッワフワのドレスを着込んだまま、テニスをして戯れる。

そして、なんと言ってもラストシーン、エリザベス・ウェルチが登場するパーティの場面が凄まじい…(ネタバレるので言いませんが)

デレク・ジャーマンは、学生時代に初めて「テンペスト」を見て、「これは狂気だ」と感じたんだそうです。その後、映画化するまで20年。その間着々と温め続けてたようです。そのせいもあってか、狂気の表現への緻密さは凄まじいものがあります。いかに「狂気」の本質をよく理解していたのかも伝わってきます。


最後にシェイクスピアの世界観を表す台詞を持ってくるのも絶妙。鳥肌モノでした。

此地上に有りとあらゆる物一切が、やがては悉く溶解して、今消え去った彼(あ)の幻影(まぼろし)と同様に、後には泡沫をも残さぬのぢゃ。
吾々は夢と同じ品柄で出來てゐる、吾々の瑣小(ささやか)な一生は眠りに始って眠りに終る。

坪内逍遥訳「テムペスト」

それにしても、映画って、ここまで出来るんだ。

映画は総合芸術とよく言われますが、どこからどう観ても一つのテーマ「狂気」に辿り着けるように、隅々までよく配慮されている。「狂ってる」という感覚に「なる」ように巧みに仕組まれています。

型を変えず、中を動かす

以前に山本周五郎が、どこかでこんな事を書いていました。

歴史を小説化する際、史実を都合よく歪めるのは簡単だ。けれど、自分は史実は変えずに小説化することを目指している。

その方が、小説として力のあるものが書けるというような内容でした。

歴史からは目が届かないような人物像を空想し、その人物が何故史実に繋がるような行動を取ったのかを徹底的に推量、分析し、その服装やクセ、日常生活の習慣まで事細かに作り上げ、立体化する。

山本作品に出てくる主人公ーー原田甲斐や田沼意次、由井正雪などーーは、史実からは空想できないほど、美しく、潔く、魅力的に描かれています。

そういう人物が、なぜ史実のような結果を生んだのか、そういったある種のパラドックスを糧として、小説のマジックを生んできたのが山本周五郎ではないかと思います。

山本の「史実」を、原作やあらすじに置き換えると、本映画にも同様のことが言えるのではないでしょうか。

原作を「」として生かす。
一つのテーマを掲げそれに向かいながら、型に入れる素材をとことん練る。あくまでも外観は変えず、中身を変える

長く親しまれる名作って、こうやって出来るんだなぁと。20代の頃には見えなかったことが見えてきたように感じました。

シェイクスピアの力

それにしても、やはり何を措いても、シェイクスピアってすごいと改めて。

これまで膨大な人たちが舞台で、映画で、書物で、あの世界を再現してきたけど、こんなに様々に、どんな風に料理してもそれなりに魅せる本って、やはり他に例を見ないですよね。

これから当分は、逍遥訳のシェイクスピア全集に浸れそうです。なんと言っても40冊もあるし、付録だってありますから。


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