おれの人生__2_

自分の人生を振り返ってみた【第2回】

サワディーカップ。タイのバンコクからごきげんよう。

突然ではあるが、自分の人生を振り返ってみた。今回は第2回、自分の中学校時代について。備忘録的な感じで自分が思っていることを素直に書き記してみた。

本文に入る前に、まずは簡単に自己紹介を。

高橋智喜(たかはしともき)
・1994年千葉県生まれ。
・タイのバンコク在住。
・明治大学法学部を卒業後、新卒でフリーターに。
・フリーター期間中は東京都内のベンチャー企業で働く。
・その後「海外で暮らしたい」という想いを捨てきれず、日系のタイ法人への就職が決まりバンコクに移住。今に至る。

自分で書いていて思ったが、レールを大幅に外れた人生を送ってきた自信は少なからずある。

構成は全6回でざっくり以下のような形。

・第1回:幼少期〜小学生時代
・第2回:中学校時代←今回の記事
・第3回:高校時代
・第4回:大学生時代前半
・第5回:激動の留学時代
・第6回:留学後〜現在(25歳)まで

自分がその当時、どんなことをして何を感じていたのかについて、赤裸々にまとめてみた。楽しんでもらえれば、これ幸いである。

前回の人生記録は、以下の記事を読んでいただきたい。

それでは、さっそく本題に入っていこう。


自分の人生を振り返ってみた【第2回】中学校時代まで

◇中学校時代

小学校を卒業したおれは、地元にある全校生徒あわせて1000人ほどにもなる大規模なマンモス中学校に入学した。中学校時代の自分を振り返ってみて思うのが、「自分を変えたいと思いつつも思いっきり空回りしていた」ということである。一言でまとめると「痛いヤツ」だった。

おれにとっての中学時代の大きなトピックは「部活動」「生徒会」である。


まずは「部活動」について見ていきたい。中学校では小学校とは異なり部活動が始まる。「〇〇君は何部に入る?」「〇〇ちゃんはテニス部に入るんだって!」こういった会話をしたのが懐かしい。

何かしらの部活に所属することで、自分の人生を変えられるような気がしていた中学に入学したばかりのおれは、野球部とサッカー部という両極端な選択肢から、野球部に入ることを決めた。

なぜ、野球部とサッカー部をそもそもの選択肢として選んだかというと、「知名度の高さ」と「チームプレーができる競技」という2つの理由があったからだ。当時、中学に入るまでに「水泳」という個人競技しか経験していなかったおれにとっては、チームプレーができる競技、かつ人から注目される可能性が高いスポーツは異様なほど魅力的に見えた。

ちなみに、最終的に野球部を選んだ理由は、より厳しい環境に身を置くことで自分を変えられると何となく感じたからだ。一言でいうと、単なるドMの発想である。

そんなこんなで野球部に所属することが決まったおれだが、部活を引退する2年半くらいの間がある意味人生で1番苦しかったと記憶している。未経験から野球を始めたことに加え、少年野球上がりのメンバーたちのレベルも高く、とてもレギュラー争いに入れるような状況ではなかった。それゆえ、チームメンバーや野球部の顧問から怒鳴られることも少なくなかった。劣等感を常に感じていたのはいうまでもない。

野球部に入ることを決めた当時の自分を何度呪いたくなったことか…。

ただ、自分で決めたことはとりあえず最後までやり抜くという責任感だけはあったため、炎天下の練習や周りのメンバーがやりたくないと思うような冬のランニングなどは弱音を吐くことなく、無心で取り組んでいたのを記憶している。裏を返せば、当時の自分にはそれくらい余裕がなかった。

2年半の間、泥まみれになりながら下手クソなりにもがいてきた結果、最後の大会では背番号をもらうことができ、最後の最後で公式戦に出場することもできた。自分の思い描いていた姿とは異なるが、どこか報われたような気がして清々しい気持ちになったのを覚えている。


さて話は変わって、中学時代のトピックの2つ目「生徒会」について書いていく。

中学1年の秋くらいだろうか、記憶はおぼろげだが、とある先生から呼び出され「生徒会に入らないか?」というオファーを受けた。授業時の態度をはじめ自分を真面目っぽく見せる特殊能力だけは持ち合わせていたため、その点が評価されたのかもしれない。

今振り返れば、なぜ入ってしまったのか自分でも甚だ疑問であるが、真面目な坊主だった当時のおれは、オファーを断りきれずに生徒会入ることが決まった。生徒会の任期は1年間。1年やれば自由になれる。そう心に言い聞かせた。

当たり前のことではあるが、生徒会に所属したことで放課後の貴重な時間を削らなくてはならなかった。そのくせ「部活に参加すること=善」「部活をサボること=この上ない悪」と考えていたため、生徒会の集まりで行われていた形式的な会議に対しては常に嫌悪感を抱いていた。自己矛盾に陥っていたといえば文学的だが、単なるアホだった可能性も否定できない。

そして生徒会に所属し1年が経とうとした頃に、おれにとっての大事件が起こった。

なんと、おれは生徒会長になった。

あれだけ、嫌だと思っていたが、生徒会長になってしまった。いや、ならざるをえなかったと言ったほうがいいだろうか。実をいうと、次期生徒会のメンバーを決めるというタイミングで候補者全員が一室に呼び出された。そして、誰がどんな役職につくのかを話し合って決めるという流れがあった。当時、嫌々ながらも「生徒会の副会長」というポジションに就任していたおれが向かう先は1つしかなかった。

もちろん、オファーを断る機会がいくらでもあったことは客観的に見れば明白だ。しかし、無駄に責任感の強かった当時のおれの頭の中に「NO」という文字はなかった。なんだかマンガに出てくる主人公のようなセリフだが、正確には断ることに対する恐怖心や罪悪感があったからだ。

とはいうものの、話し合いというプロセスの中で「生徒会長におれはなる‼︎‼︎」とワンピースのルフィのような人物が現れるのではないかと心の奥底で期待していた。人生の中で、この時ほど他力本願に陥っていたことはない。

しかし、現実はそんなに甘くはなかった。生徒会長以外のポストは次々と決まっていったが、見事に責任が重くのしかかるポジションだけぽっかり空いていた。どうやらこの部屋にルフィはいなかったようだ。

そして、突如おとずれる沈黙タイム。みんな突然、忍者にでもなったのだろうか。おれも負けじと、空気になるべく必死に息をひそめていたのを覚えている。

そんな時間が数分続き、ついに沈黙に耐えられなくなったおれは、自分の意思に反して思わず手をあげてしまった。チキンレースの敗者が感じる屈辱感を人生で始めて味わったのもこの時だ。

往生際の悪いおれは、自分が手をあげたタイミングで「ダチョウ倶楽部の鉄板ギャグ」が炸裂するのを期待していたが、世の中はそんなに甘くなかった。どうやら、1番最初に「上島竜兵」が手をあげてしまったようである。

こうしておれはマンモス校の生徒会長となった。就任する前からモチベーションはゼロである。いやむしろマイナスである。こんな社長がいる会社だったら、設立直後に倒産必至である。その場しのぎの短期的な結果を追求したせいで、長期的に苦しまなければならない状況を自ら作り上げた。

ここまでくれば、ドMの境地に達したと言っても過言ではないだろう。

ちなみに後日談になるが、生徒会長として何のモチベーションもないまま1年間を過ごした結果、不思議なことに学校全体の雰囲気が若干落ち着いた(ような気がした)。生徒会長としての役目は全く果たしていない、のにもかかわらずだ。

おれが入学したころは校舎の上の階から、給食で出てくる牛乳や教室にあるイスが降ってくるような中学校だった。世の中には雨や雪以外にも上から降ってくるものがあるのだなと知った。当時、天気予報でおれが1番知りたかったのは「降水確率」ならぬ「降イス確率」だったのはここだけの話である。ヤンキー漫画さながらのリアルな現実に、背筋が凍りついたのが懐かしい。

そんな入学当時から比べると、おれが卒業する中学3年のころにはだいぶマシになっていたのではないかと個人的には思う。少なくとも、上からイスが降ってくることはなくなった。安心して天気予報も見られるようになった。

さて、話を元に戻そう。

自分が無理に働きかけなくても、時の流れとともに状況は良くなる。「他力本願で世の中は変えられる!」こんな選挙ポスターを掲げている候補者がいたら落選まっしぐらだろうが、当時のおれは本気でそう思っていた。言い換えれば、自分は何もしなくても人を動かす力が身についたのかもしれない。

これまであまり語ってこなかった黒歴史だが、なんだかんだでいろんな教訓を得られていることに書きながら気づいた。

何事も、「物は試し」なのかもしれない。


【第3回】高校時代に続く。


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