「髑髏となってもかまわない」

もう中年以降になったら、ある程度は、自分なりの「死生観」を持った方が良いと思う。多分、考えてないから、オノレの死が、いつまで経っても、突然やってくる恐怖でしかない。

じゃあ、オノレは持ってるのかと問われれば、曖昧でしかない。こんな風に死にたいなぁという希望はあるが、多分、実現できないと思うし。

著名な宗教学者の死生観らしきエッセイ。

良寛の言う、
「災難に逢ふ時節には災難に逢ふがよく候
死ぬる時節には死ぬがよく候
是はこれ災難をのがるる妙法にて候(これこそ危機脱出の妙薬)」
コレはある種、理想だなぁ。死ぬ時は死ぬのが一番良い。気付いたら死んでたみたいな。

西行の、「願はくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」(できることなら桜の花の下、春のまっさかりの中で死にたいものだ。あのブッダの涅槃の日、二月十五日の満月の頃に)という死生観もオツだね。浄土往生願望だろう。

ローソクの火が緩やかに消えていくように、命の火を燃え尽きさせる…。生命の盛りを過ぎれば、後は徐々に衰退のリズムに身を委ねて、自然に逆らうことはしない。

でもなぁ。やっぱり人間は、自然に逆らってこそ、人間なのだよなぁ。

例えば、重篤な病気にでもなれば、死を身近に感じるなど意識することもあるだろう。もし、とりあえず何事もなく健康のまま老年を過ごすとなれば、死は必ずやってくるものだから、いつ死がやってくるのだろうと、いたずらに死への恐怖が増すのではないか。

死は、不浄のものでも、忌み嫌うものでもない。今は、長生きと健康が圧倒的な善となって、死は悪となって、老病に怯えながら老年を過ごすのは、不自然であることはよくわかる。

でも、死を意識しながら、死を覚悟しながら、生きるからこそ、生が輝くこともある。


脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。