長崎原爆の日

今日は長崎原爆の日。

小学校低学年の頃、長崎に住んでた。細かくは覚えてないが、道が狭くて坂がやたら多かった印象がある。

鹿児島に住んでた頃、中学校の修学旅行で長崎に行った。当時、クラスのイジメっ子と対立してて、どこに行っても争ってた。

グラバー邸など、定番の観光地をまわり、当然、平和公園と原爆資料館にも行った。

途中バスの中でガイドさんが、「ああ、原爆許すまじ〜」といった原爆の唄を泣きながら歌ってて、オレは楽しいイベントでなんでこんな悲しい唄を歌うんだと腹が立った。

平和公園のマッチョな像を見て、体鍛えてあんな身体になりたいと思ったっけ。

原爆資料館では、人間の指?の骨が岩か何かにくっついてるものが展示してあって、女子たちがキャーキャー騒いでて、オレも友達と興奮して見に行った。

原爆の悲惨さというよりも、残酷な展示にお化け屋敷に入ったような感覚で見てた。

しかし…2度の原爆に、最悪の原発事故と核づいてるなぁ、この国は。

人間は自然のものだけど、他の動物と違い、火を扱うことになってから、自然からの独立を義務付けられた矛盾した存在だと思う。自然を支配することになっても、結局、自然の一部であり、自然の呪縛から完全に逃れることは不可能なのに。

自然からの独立の果ての一つに核エネルギーがある。人間が生活する生態圏には存在しなかったものを無理矢理、エネルギーとして持って来たのが核だろう。

核エネルギーは、そんなに低コストでもないし、廃棄物の問題もあるし、何よりも人体に大きな害のある放射能を避けて語ることはできない。悪いことだらけなのに、なぜ核エネルギーに惹かれるのだろうか?

多分、合理的理由ではなく、核に、人類の、自然から完全に独立した“未来”を見る宗教的な“信仰”のようなものがあるのではないかと思う。

そういえば、前に鹿児島・川内原発のミュージアムを見学した時も、やたらと未来を強調した展示であったし。

他のエネルギーは太陽でも、石油でも、石炭でも、水でも、自然からの「贈与」、地球の生態圏の中にある「贈与」によって成り立っているが、核エネルギーはその外側にあって、「贈与」を受けてない、人間が作ったエネルギーなのだ。そこに信仰に似た可能性を希望的に持ってるってことだ。例え人体に害を及ぼすとしても。


脳出血により右片麻痺の二級身体障害者となりました。なんでも書きます。よろしくお願いします。