Ⅰ ウイーク・ソートで?
僕が初めて「フラジャイル」という言葉を意識に留めたのは、ステイングの『フラジャイル』だろう。
ステイングは人間の愚かさを嘆き『フラジャイル』として伝えた。
松岡正剛が記す“フラジャイル”は多様な“フラジャイル”だ。
おおむね「弱さ」は「強さ」の設定によって派生する。
「強さ」の相対として「弱さ」は浮かび上がり、そして深淵さを帯びる。
松岡はここでは単純な二項対立は敢えて拒否している。
正常と異常、健康と病気、優性と劣性、本格と破格、平和と暴力、勝者と敗者、正統と異端などだ。
単純化してしまうと、探り出そうとしている「弱さ」の魅力がすぐさまひそめてしまうからだ。
僕も子どもの頃は何度も叱られた。
「あのオッチャンは何であんなカッコしてんの〜?」
「あの、………」
しまいには、言い出す前に指差す手をはたかれて「やめなさい」と…。
学校での話題でも、他の家庭と違ったり、”みんな”が行った事のある所へ「行った事ない…」「見たことない」「持ってない」なども“マイノリティ”であれば「異質」とみなされた。
大人になっても少し体裁だけかえて、自分や他人の欠点や弱点をあてはめる。
子供のころに夢中になった遊びでさえ、恥ずかしい欠陥となる。