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大人にはなりたくない


岡本太郎さんに感化されまくっている今日この頃。以前違う本を読んだ時のnoteを読み返して今の自分に照らし合わせてみた。


貼り付けた記事のタイトルの通りで、純粋に自分を通して尖った生き方をしようとすると、少なからず世に言う不幸が起こる。



社会から外れるのか。
変わった人間とみられるのか。
自分を責めるのか。



不幸のあり方も人それぞれだとは思うけれど、何かしらの弊害が生まれる。

けれどそういえば小さなころはもっともっと純粋に自分のもった棘を振りかざして、今という世間に正面からぶち当たっていた。

いつでも兎に角自分を第一に。やりたいことはやる。言いたいことは言う。とにかくそんな調子だった。



いつの頃からだろう。おそらく中学1年生くらいだろう。

クラスや学校、野球のチームといった小さな社会の中で、自分の棘を折って、周囲と摩擦が少なく生きようか、それとも刺々しく自分を生き続けるのか、「大人にならなきゃ。」「もう子供じゃないんだから。」といった言葉が頭の片隅でこだまして、僕の心をかき乱した。


角が取れて摩擦が少なく周囲とうまく調和する人間性が美徳とされやすい日本の社会の中で、「できれば自分らしく居たいけれど、仲間はずれにはされたくない。」というジレンマに悩みながら、そんな中学時代からもう15年近くが経った。


あの頃の、いやそれよりももっと前の小学生の時の僕が今の自分を見たら、「結局丸くなってるじゃん。大人ってカッコ悪。」と睨みつけていただろう。

中学校の同窓会で、中学の時の先生に「お前はそんな優しい目をしていたのか?」と驚かれたときに、うれしい反面、なんだか虚しさと自分が居なくなってしまったような寂しさを感じたのを覚えている。

「ああ、面白くない人間になったのか・・・」と。



そう思うと、冒頭の


「純粋に生きる為の不幸こそ、本当の生きがい。」


というのを体現していたのは『子ども』の頃の僕だ。今僕は中途半端に大人になってしまった。世間で言う『大人』になり切れなかった半人前の大人。



だとすれば僕はこれから『子ども』になりたい。



いつまでもみずみずしく、そして自分を通すために自分自身を睨みつけ闘い続ける子どもでいたい。





だから僕は一人前の「大人になりたくない」。

ともですっ、最後までご覧頂き本当にありがとうございます^^