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一人の女性から始まったオーストラリア独自のチャリティショップ「OP shop」の歴史

英語圏の国には、人々からの寄付品を販売するショップがあり、非営利団体などが重要な収益事業の一つとして運営をしています。
実は、その呼び名は国によって様々。イギリスではCharity shop(チャリティショップ)、アメリカやカナダではThrift shop/store(スリフトショップまたはスリフトストア)、オーストラリアやニュージーランドではOpportunity shop(オポチュニティショップ)を略して、OP shop(オプショップ)と呼ばれています。

類似の取組み事例として、フランスで始まったとされるフリーマーケットは日本でもエンタメ性も盛り込まれたイベント形式で開催されていたり、様々な非営利団体などがチャリティバザーを一時的に開催することもありますね。

近年のオーストラリアでは、OP shopが非常に大きい経済効果をもたらしているデータもあり、サステナビリティやエコビジネスをはじめとする環境配慮に関わる色々な取組みの普及やトレンドも影響して、メディアでも取り上げられています。

OP shopを様々な角度からみていくことによって、オーストラリアにおいて寄付がいかに根付いているかを知り、日本のソーシャルセクターが新たなアイディアをもとに得る一助になればと思います。
ですが、いざ調べ始めたところ、イギリスとアメリカの歴史と繋がっていて、特にアメリカのとあるThrift storeの取組みから影響を受けているようなので、イギリスのCharity shopとアメリカのThrift shop/storeの歴史も辿っていくことになりました。。いやぁ、チャリティの歴史は広く深いです…


チャリティ活動発祥の国・イギリスにおけるCharity shopの歴史

先ずは、オーストラリアのルーツでもあるイギリスにおいて、Charity shopがどのような歴史を辿り現在に至っているのかの概観を、英国人ライターのMartin Fone氏が執筆記事をもとに要点を紹介します。

18世紀、貧困層を支援する活動が本格的に出てきました。各教区に課税される不動産税「Poor rate(筆者より補足:税金の名称なので、貧困率ではなく、貧困税または救貧税と訳して理解すると良い)」が貧困層の救済目的で実施されたり、食料や衣類の提供などで貧困家庭を支援するワークハウスが設立されていきました。また、舞踏会やコンサートなどで資金を募ったり、慈善目的に莫大な寄付をする慈善家が現れるようになり、貧困家庭の子ども達を支援する慈善団体が設立されていく動きがこの頃にあります。

19世紀には、チャリティバザーが慈善活動のファンドレイズ手法として出てきました。1833年に、ウィリアム4世の妻であるアデレード女王がロンドンで開催された大規模なチャリティバザーに出席したことで王室の認可を受けたことをきっかけに、やがてロンドンだけで1,000回以上のチャリティイベントが毎年開催されるようになり、この取組みは国内に広がっていきました。

1937年、現在の形態に近いCharity shopがNicholson Streetで営業開始し、開店1時間前から行列ができ、警察が立ち会うほどだったとのことです。

その後、世界大戦を経て、使い捨ての大量消費や衝動買いの時代に突入して、余剰の衣類などが「寄付品」としてまわされるようになりました。1980年代に入り、各種専門店がスーパーマーケットに取って代わられるようになる中で、行政がCharity shopに対して様々な税制優遇の施策をとり始め、税金面での大きなアドバンテージを得ながら、Charity shopの普及と専門化が進んでいったようです。

このように概観してみると、慈善団体などの民間の頑張りだけでなく、要所要所においてイギリス王室や行政の積極的関与や税制優遇措置があったことは、今日のCharity shopがイギリスで根付くまでに大きな影響を与えたと言えるでしょう。

アメリカでThrift shopが生まれるまで

歴史家のJennifer Le Zott(ジェニファー・ル・ゾット)氏は、著書やレポートでアメリカにおいてThrift shop/storeや中古品産業がどのように発展したきたかを述べています。

イギリスの産業革命による社会構造の変化、19世紀のアメリカでのゴールドラッシュ等により、多くの移民がアメリカに入ってきました。衣料品は大量生産され、新しい服を買うことが手頃になり、服を使い捨てのものと捉える人が増えていきました。そうした社会状況のため、他人が所有していた中古の洋服を着ることに偏見があったようです。それに加えて、中古の衣類を売る人々に対してもお金がないことの表れと見る傾向がありました。

その中で、中古品販売で大きな収益源になると捉えたキリスト教系の福祉団体がいました。そのうちの一つが世界14か国にまで現在広がっているGoodwillです。当時の人々から信頼を得られたのは、宗教的なバックグラウンドがあったことが要因だったであろうとZott氏は推察しています。

1920年代に入り、ジャンクショップとかつて見なされていたものが、「Thrift(倹約、節約の意味)」という言葉に変わり、Thrift shop/storeという名前が広がっていき、中流階級の主婦達が「何か新しいものを買っても、何かを返すことができる」という善行をした気分を感じるようになっていきました。

「チャリティではなく、機会を与えるんだ!」Goodwill設立者の言葉と機会を与える袋

ここで改めて注目したいのはGoodwillです。現在では、アメリカやカナダの各地域にまで広がり、Thrift storeだけでなく、移民や障がい者、生活困窮者などへの包括的なサポートを行っています。
このGoodwillが、北米でのThrift storeの普及に大きな役割を果たしていたのと、オーストラリアでのOpportunity shopの始まりに影響したようなので、ここでGoodwillのみを取り上げています。

先述のZott氏の著書やレポートでもGoodwillは取り上げられており、設立者のDr. Edgar J. Helms(エドガー・J・ヘルムス博士)の「Not charity, but a chance(チャリティではなく、チャンス/機会を与えるんだ)」という言葉が色々な記事やGoodwillの各支部・関連団体で引用されているのが見受けられ、Goodwill全体の理念に影響しているように思います。

そして、もう一人、このGoodwillの南カリフォルニア地域での設立に関わったKatherine B. Higgins(キャサリン・B・ヒギンズ)氏を紹介します。
彼女は、英国のビルストンで生まれた5人兄弟の末っ子でした。1882年に父が亡くなった後、家族は米国ペンシルベニア州ピッツバーグに移民。ビジネスカレッジを卒業後、インディアナの教会に加わり、ソーシャルワークの先駆者と言われたJane Addams(ジェーン・アダムス)氏のもとで、ソーシャルワークを学びました。

1915年、ラテンアメリカからの移民への福祉活動のため、ロサンゼルスに移り、医療クリニック設備のある福祉センターで活動を開始。

1916年、センターの運営資金を確保するため、Katherineは200枚の中古のコーヒーサックを購入し、「Opportunity Bag(機会の袋)」を作成しました。この袋は、必要のない品物を寄付したい人々の家に設置され、その寄付品を他の人達が安価な価格で購入することができました。また、移民の仕事の機会として、この袋に寄付された衣類を修繕する仕事をつくってもいたそうです。このOpportunity bagは、その後、他の地域のGoodwillにも広がっていったようです。

まさに、Goodwill設立者Dr. Helmsの言葉「Not charity, but a chance(チャリティではなく、機会を与えるんだ)」を体現したような彼女のソーシャルワークは人々に受け入れられ、「Miss Goodwill(ミス・グッドウィル)」「Mother of Goodwill(グッドウィルの母)」「Angel of the Plaza(プラザの天使)」といった愛称で親しまれるまでになります。

1949年に、福祉センターでの仕事やGoodwillの活動を引退しましたが、その後も全国の教会で講演を続け、1967年にこの世を去るまで精力的に活動を続けたようです。

オーストラリアのOpportunity shopの名付け親 Tallis夫人

オーストラリアの歴史家Robyn Annear(ロビン・アニアー)氏が中古品の歴史についてまとめた著書「Nothing New : A History of Second-hand」において、Opportunitiy shopという名称を考え初めて使用したのは、メルボルンでショーガールとして活躍したAmeria "Millie" Tallis(アメリア・"ミリー"・タリス)夫人だったと述べています。旧名は、Ameria Young(アメリア・ヤング)。文献や資料によっては、コメディアンや歌手だったとも記述されていて、多才なパフォーマーだったのかもしれません。

Ameria "Millie" Tallis夫人(Mornington & District Historical Societyのfacebook投稿より)

Tallis夫人のパートナーであるGeorge Tallis(ジョージ・タリス)氏は、J.C.ウィリアムソン社の取締役会長を務めており、1922年に「慈善のための営為に対する努力を評価して」オーストラリアの舞台芸術界のトップとして爵位「Sir」を授かっています。Sir Georgeは当時の「オーストラリアで最も影響力のある劇場の人」と評価されていたようです。

Tallis夫人自身のショーガールとしての地位とSir Georgeの社会的な地位も相まって、メルボルン社交界の重鎮として、影響力のある人達の協力を多く得ることができたようです。

その後、メルボルンのSt Vincent's Hospital(セント・ヴィンセント病院)の資金調達計画を主導し、St Vincentにある古いサイクロラマ(18~19世紀に主にヨーロッパで流行ったパノラマシアター)に、余剰品を寄付で募り販売するショップを設置することを提案しました。この際に、Opportunity shopという名称が初めて使われています。

OP shopに使用されたサイクロラマ(Mornington & District Historical Societyのfacebook投稿より)

Tallis夫人は、エレガントなスタイルで、数々の新聞社に手紙を直接書いて送り、余剰品を格安で販売するOP shopの計画を宣伝していきました。この計画は、当時のメルボルン市長からも支持を得て、サイクロラマに寄付品を直接持参できるだけでなく、市役所や鉄道駅にも寄付品を納めることができるくらい大々的に行われたようです。

1925年10月、国内メディアの1つ「Melbourne Talk(メルボルン・トーク)」にて、「Tallis夫人のOpportunity shopは素晴らしいアイデアで、流行るだろう」と評する記事が載ったという記録が残っています。実際に大ヒットしたことで、1926年以降、様々な非営利団体や事業支援のためのOpportunity shopがメルボルン市内で開業され、地方都市や他の州に広がり、今日ではオーストラリア国内全土に広く普及していきました。
Tallis夫人のOpportunity shopは3ヶ月だけの営業ではあったものの、Opportunity shopという名称と取組みがオーストラリア独自のものとして現在にまで続く礎をつくった功績は非常に大きいものだったと言えるでしょう。

その後、Tallis夫人は資金調達をしたSt Vincent Hospitalの理事として、生涯を終えるまで関わったそうです。

なお、Opportunity shopの名称の由来に関しては、Sir GeorgeとTallis夫人が1925年頃にヨーロッパとアメリカを旅行した記録があり、当時のアメリカでGoodwillが配布していたOpportunity bagに影響を受けて、Opportunity shopという名称にしたのではないかという考察がありました。
他には、フランスの街中でみかける「magasin d’occasion(中古品店)」のoccasion(機会という意味もある)という言葉から取ってきて、同じような意味のopportunity(機会)という言葉を、Tallis夫人が選んだという記事もありました。しかしながら、調べた限りではTallis夫人とフランスとの接点がほとんど無かったので、筆者的には後者は眉唾物で、前者の方が真実に近いのではないかと思っています。

Tallis夫妻の子どもが継いだBeleura House & Garden

Tallis夫妻が購入していた別荘は、4人の子どものうちの末っ子John Tallisが相続しました。そのJohn Tallisの遺産であるBeleura House & Gardenは、ビクトリア州およびメルボルン周辺の観光地の一つとして、現在も多くの人々が訪れる場所となっています。
オーストラリアを訪れる際には、こうしたチャリティやソーシャルセクターの歴史の観点からも各地を訪れてみると面白いかもしれません。


蛇足

蛇足ではありますが、オーストラリアの公共放送「ABC Australia」では、OP shopが国内で広がった歴史を辿る特集が組まれたようで、本記事の執筆時点(2023年7月時点)ではYoutube上で観れる状態でしたので、興味がある方は観てみてください。
ちなみに、本番組ではTallis夫人に関して全く触れられていません…(苦笑)

記事をお読みいただき、ありがとうございました!もしよろしければ、サポートいただけると日々の活動の励みになります!これからも日本の非営利活動のお役に立てるように、様々な機会に参加して得た海外のソーシャルセクターの情報や知見を発信していきますので、今後ともよろしくお願いいたします!!