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「中庸」な生き方

こんにちは。

今日も徒然なるままに気づきや学びを書きます。

さて、最近ふとしたきっかけで、自分の大切にしている価値観に改めて気づくことがありました。

私は、ヴィンテージの腕時計が大好きで、毎年何本も購入しているのですが、購入する時計の雰囲気や形状もそのときの気分で変わります。
基本的には、腕時計そのもの美しさや本質を追求したシンプルなつくり、機能美や用の美を感じさせる雰囲気、そしてブランドも有名だとか高価だとかではなく、腕時計そのものと対話し(この時点で変態ですがw)、心が動かされるかどうかを決めてにしています。もちろん、自分に似合うのかも含めて真剣に考えて選びます。

しかし、あるとき、ちょっと浮気したというか、志向が変わる時期があり、少し購入する時計が、ドレスよりかつきれいな時計に気持ちが寄ってしまった時期があり、いくつかそのような時計を購入しました。しかし、現在は、それらの時計は、いつの間にか下取りや買取りに出してしまい、今手元に存在しません。

私はヴィンテージの腕時計を購入するお店は信頼する1店舗のみなのですが、私の担当をいつもしてくださる店員さんが、僕に対して、
「好きな時計は、ドレスにも、カジュアルにもより過ぎない時計ですよね」とはっきりと指摘され、「あー確かに」と心の中で左手の平を右手の拳でポンと叩くような音がして、少し濁ったというか、曇り空のような視界が拓けたような気持ちがしたのです。

そして、その刹那、ふと自分の人生を走馬灯のように振り返る。

【学生時代】
・ガリ勉でもなく、スポーツマンでもなく、文武両道を目指していた(どちらもボチボチですがw)
・くそ真面目ではなく、遊びもそこそこ楽しめる、バランスを大切にしてきた(まじめな友達からいわゆる不良な方々までいろいろな人たちと仲良しでした。悪いことはしていませんw)

【社会人】
・仕事とプライベートとを分けようとか、別物だとかはあまり考えたことがなく、一方が充実しなければ、もう一方も充実しないという考え方で仕事に取り組んでいた
・常に偏見や偏りを拒み、ニュートラルに事象を観る、人と接する、物事を判断するを大切にしてきた
・病気を機に人生観が大きく変わる。これまでバランスを大切にしてきた自分を恥じた。とても嫌になった。自分が中途半端に見えた。そんな自分を変えたいと、遅咲きのようにキャリア系の勉強と資格を勉強して取得する。初めて自分がバランスではなく、1点突破的な人生を歩んだ感覚。
・でも、今もバランスを大切にする価値観は変わっていない。仕事と生活のそれぞれの質は高めて、ただ重なりに存在する境界線を薄く、薄く、ごく薄くし、なるべく境界線をなくしていきたい。
・「人生」という枠組みですべてを包括したいと願っている。全部大事。どれかではなく、すべて。

シュッと走馬灯から現実に戻される。

そして、ある言葉が自然と自分の中に入り、
自分と一体化する。

中庸

さらに、心のうちに天使と悪魔の声が沁みわたってくる。

天使:「中庸がおまえの生き方なんだ。自信を持て!」

悪魔:「いやいや中庸なんて言葉は、中途半端な人の言い訳を表現した言葉にすぎないんじゃないの?」

天使:「そんなことはない。中途半端と中庸は違う。ある意味、強さも弱さも、美しさも醜さも、喜びも悲しみも、両極に見えるものを受け容れるからこそ到達できる境地だと思うよ。そもそも、天使と悪魔だって対立しているのではなく、両立する人間の性。」

悪魔:「じゃあ、おれたちは仲間なのか?」

天使:「仲間というよりも、同一。一身一体。」  

悪魔:「ふむむ。天使と同一か。戦わないで済むならそれが一番いい。」

ああ、自分が目指してきたのは、バランスともいえず、
中途半端ともいえず、「中庸を生きる」ことなんだ。

中途半端な自分を変え、より質の高い、ボチボチの塩梅の中庸な人生を生きること。
それこそが僕の人生なんだ。

と、目の前に、最近購入したドレスともカジュアルとも違う、
中庸な時計がいて、それを購入する決断をし、
家路に向かいました。

今、たくさんある時計の中でも、この時計が一番の相棒になりつつあります。

身に着けるものにも自分の生き方を反映させていきたい。

自分にとって、とても大切な出会いと気づきでした。

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