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これは40代の中途半端なグラフィックデザイナーが失業して野垂れ死ぬのが怖くて、自分は天才だと暗示をかけたい文章です

渡り歩いてきた6社中3社が経営悪化、倒産

私は自慢ではないが今まで6社経験し、5回の転職を経験している。そのうち、2回は会社都合、すなわち経営悪化による解雇を受けてのものだ。
(もっと細かくいうと、新卒で入社し自己都合で3ヶ月で退職した会社はその1年後につぶれている。)

就職氷河期と呼ばれる世代なら、企業側も割りとポンポン潰れたり経営悪化でリストラしたりはそう珍しいことではない。もう慣れっこである。

そして今働いている広告代理店もまさに、その時が近いのではないかと感じている。

中途半端なグラフィックデザイナーが生きるすべ

40代からの転職活動は、30代までのそれとは比較にならないほど厳しいと聞く。
よほど有能なディレクションでもできない限りそうだろうなとは思うので、いよいよ次は独立を考えなくてはならない。

とはいえ、私はとっても中途半端なグラフィックデザイナーだ。
グラフィックデザイナーと言っても美術系大学や専門学校に進んだわけでもなく、ただ職業訓練校で「Illustrator」や「Photoshop」の使い方を学んだだけで、あとは何となくやってきて今がある。

「中途半端じゃない、まともな」デザイナーとは、私の中では「美術系大学や専門学校で基礎からデザインを学問として学んできたデザイナー」だ。

そういうデザイナーはやっぱり「芸術ではない、デザインの力でちゃんとクライアントの問題を解決することができる」のだ。右脳派でありながら理詰めもできるのだ。

けれどそんなのはやっぱり一握りで、大多数は中小企業の細かでタイトスケジュールな案件に日々追われるデザイナーが大半で、それもわかっているつもりだ。

ここまで書いてきて私も含めて日々泥水をすするみたいに生き延びているデザイナーたちのことを「まともじゃない」とひとくくりにしてしまうのはどうだろう、と思ってしまった。打消し線で消したりもできるけど、まあ書いてしまったし、まともじゃない中途半端なのは私だけだという前提で、そのまま書き進めてしまうことにする。

ではそんなまともじゃない、つまり独立から逆算した王道路線ではなく何となくグラフィックデザイナーになってしまった私に残っているものは何であろうか。

大谷翔平は野球の天才ではない

大谷翔平選手、WBC優勝に貢献し、言わずもがな世界中が知りベーブ・ルースの記録さえ塗り替えた日本の誇り。

その技術だけではなく少なくとも報道を通して見る限りでは完成された人間性にも注目が集まる。
その姿を見聞きしていると、少なくとも彼は野球が大好きなんだろうし、高水準な運動能力はあるのだろうけど、あくまで「努力の天才」であって「野球の天才」ではないと感じてしまう。

努力の天才は、好きなことのために努力を惜しまないが努力の成果を最大限に発揮するためには何をすればいいか、徹底的に考え抜く。
野球の天才ではないことを知っているから、あれほど「正しく精密に計算された努力」ができる、これを努力の天才と言わずして何と言うか。

自分が凡人であることを知っているから、周りがついため息をつくような善い行いを日常に心がけている。これを至極まともな人格者と言わずして何と言うか。

「自分が普通の人間だと理解している」からこそ「そのくらい努力しないと夢はかなわない」と思ってきたのだろうし、まさにデキた人間しか考えられないことだ。

「天才」かもしれない私

天才とは「何も考えずに、なんの教育も受けずに、やり方もなにもかも考えず、いきなり何かが出来る」人だ。
逆に言えばものを理屈で考える力がない、「直感でしかできない」とも言える(その意味で大谷翔平は天才ではない)ので、天才は紙一重などと言われる。

私の中で紙一重の代表格が「裸の大将」の山下清だ。
その類まれなる才能は素晴らしいけれど、それ以外がからっきしであり、軽度知的障害まで併せ持っていた。発達障害の一種である「サヴァン症候群」だったとも言われている。

考えるよりも感覚がすべて、それが天才。

なぜそう思うかというと、自分がそうなのではないか、と思うからだ。
なにも自分は天才だと触れて回りたいわけではない。
天才とはふつう褒め言葉の意味で使うけど、すでに述べた通り特定のジャンル以外のところですべてが相当駄目なのである。

おそらく普通は経験を糧に成長するけれど私は経験してきたことを全部忘れてしまうからだと思う。
認知症のように忘れるのではなく、その時感じたことや、そのときの経験をしっかり覚え次に似たようなことがあればそれを応用して対処する、みたいなことができない。
経験と応用を絡ませ合い、積み重ねていくうちに人として成長していくのだろうけど、年相応の対処がいつまでもできないという感じ。40過ぎという年齢のわりには幼く頼りない、これほど使えない中年もいないであろう。

しかも、山下清クラスの天才ではなく、見た目は普通で、話してもたぶん普通の人にしか見えないような中途半端な天才だ。診断は受けていないが私もおそらく発達障害だろうなと感じているし、デザインの分野の何かで多分「持ってる」とは思うのだけれど、今のところそれが活かせていない。
今こうしてふつうの家に住んで普通に暮らしているのが奇跡だと感じる。

そんな私のように、年寄りが若者に勝てるのが唯一経験なのにそれがないために、その日その日をなんとか生きている、知られざる「中途半端な天才たち」は実はめちゃくちゃ居るのではないかと思う。
中途半端に常識的なので、自分の才能を押し殺して得意じゃないほうへわざわざ力を注いでしまう。
しかも突出したその才能は、飯を食うために役立たない可能性すらある。

「天才」だからこそ、直感を信じて生きるしかない


凡人以下みたいな「天才」こと私はなにか1つのジャンル以外のすべてのステータスが低いので、少なくとも多くの日常生活が問題なくできる人向けの一般常識は通じないと考えたほうがいいと感じた。

人生折り返し地点が見えてきた。もうここまできたら、なにをやらせても経験が積めない自分に期待するよりもとにかく直感を信じるしか無いような気がしてくる。

中途半端にモノを考えているフリをせず、やりたいことをやってみる。
楽しいと思ったことを続けてみる。
行きたいと思ったところへ行く。

誰かに言われた「普通」は自分にとってあまりに高いハードルの連続でしかない。

これが自分なんだ。これしかできない自分なので、ほかが一切合切すべてダメではふつうの仕事なんてつとまらなくて当然なのだ。
その唯一無二のアイデンティティとなるたった一つの武器を手に携えて、人生の旅の仕方を変えてみるほうがいいと思い、試行錯誤を重ねる毎日。

幸い、今は発信方法が豊富だ。
わざわざ駅前に露店をかまえて絵を売って小銭を稼がなくても、ホームページに作品を置いておけば人が集まるかもしれない。

40すぎの中年デザイナー、それもまともにデザインを習ってもいない。それでもいい、天才は習う必要がないというより習うことが無駄ですらある。
それよりも自分の感性を信じて、すべてを託せ。
自分の唯一のそれは、発信しないとだれも知ることができないのだから。
自分を信じられるのは自分だけ、まさに天才のための言葉ではないか。

自分よ、常識に押し殺されてはいけない。


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