本質と自分の感覚 -自分がわからなくなった私がどう追い求めたか-

自粛生活で今個人レベルで起きていること。行動が限られることで自分を見つめる作業をしやすい環境下にいる。外に向いていた意識が内に向きやすい。
私は、今までいかにテクニカルや既知の他者による事実ばかりに合わせて生きていたのか、ということをここ5年くらいでまざまざと思い知らされている。

本質を見つめるということは、無駄をそぎ落とさなければできない作業で、心は苦しい思いをする。その状態を乗り越えなければ得られない。

ここで言う本質とは、個人レベルで納得感が得られる気づき、と定義する。世の中に多く出回るのは、こうすればもっとよくなれる、というテクニックや欲に訴える話で、その事実に気づいた時にふと、

では自分の感覚というものはどうなのか?と考えた。

あるコンファレンスに参加した際に、腹落ちする、という感覚が、実は非常に大事であると聞いた。

腹落ち=納得。

腹落ち、第一チャクラ、丹田の感覚、

と私は数年追求した結果、そう個人的に理解している。

腹落ち、についてはテクニカルとは真逆の、自分の感覚の話だ。

感覚、というものにいかにフォーカスしていなくても生きていけるか、ということ。同時にそれは、生き物としての本能が薄れている、ある意味危機的なことではないか、と感じる。感覚とはインスピレーションと理解している。

感覚とは、その他共通で得られている常識とは別の、自分事、と理解している。

自分がどう感じているのか、きちんと潜在レベルで理解して生活している人はどの程度いるのだろう。

無意識下で生活していることがほとんどではないかと思う。無意識を潜在レベルまで持ってくるのは、エネルギーがいる。毎瞬これを実行しようとすると、とても疲れる。一日生活するだけでしっかりと脳が疲れるほどだ。こんなに皆とつながれば、誰か(対外素晴らしい、もしくはそう見える、あるいは嫌いな誰か)、もの等に意識を奪われるのはたやすい。優先順位がこれまで以上に大事になってくる。
身の回りに意識が移ることで、ものや行動、情報、人間関係等、あらゆるいらないものを断捨離するタイミングに来ている。

意識を内に向け、無駄な情報をそぎ落とすことで、本質も自分の感覚も見えやすくなる。

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