功利主義という勘違いされやすい子

功利主義とは

高校の倫理学の授業で先生が言っていたことを今も覚えている。
「功利主義は社会の幸福度を数値化し、最も大きくなるように行動しましょうという考え。社会全体の幸福度が最大化されるなら、いじめも奴隷も正当化される危険性がある。」

当時の私は授業を真面目に受けていなかったこともあり、「なかなかドラスティックで倫理学とは正反対な考えだな」くらいにしか思っていなかった。

今の私が当時の私に言いたいことは、2つ。
功利主義は現代倫理学の中心であるということと、その先生の理解は少し間違っているということだ。

前者は後に触れるとして、後者は功利主義が生まれてから今までずっと言われ続けてきた。

功利主義がどんなものか簡単に振り返る。

ある5人しかいない村があったとする。
5人の幸福度はそれぞれ5であり、村全体の幸福度は5×5で25である。
この村全体の幸福度が高くなるように行動するのが功利主義であるが、よくある勘違い(前述の先生の理解)はこうだ。
5人の村人のうち1人を奴隷にすることに決めた。
奴隷の幸福度が5から-5になるが、他の村人の幸福度が10になるとすると村全体の幸福度は10×4-5=35になり、先程の25より高くなる。よって功利主義的には正しくなり、功利主義は奴隷を推奨することになる。
つまり功利主義は社会全体の幸福は考えるが個人の幸福は考えないと批判される訳だ。

ミルの功利主義にあこがれて


社幸福度を数値化するという現代的に見れば実に合理的で科学的なアプローチは、当時からすれば異端だったであろう。
その異端さも相まって、拒否反応的に批判されている気がしなくも無い。
(幸福という目に見えないものを数値という人間が理解しやすい物で表すという心理学やその他学問に通ずる手法を、The文系と思われがちな倫理学に持ち込んだことは功利主義の功績だと思う。)

社会全体の幸福度の最大化を目指す以上、個人の幸福が多少なりとも犠牲になるのは必然であり、その観点では個人の幸福を省みていないという批判は正しいかもしれないが、少なくとも古典功利主義の大家であるJ.S.ミルは個人の自由と幸福を否定していない。

ミルの考えでは個人の人権を保証した方が社会全体の幸福度は高まる。最低限度の生活、つまり生活保護のようなセーフティネットを社会として設けることで、各個人が安心して生活を送れ、幸福になるということだ。例え生活保護の為に税金を払うことになっても、最低限度の生活を保証されることの方が幸福度が高まると考えている。これは基本的人権の分野でもおなじであり、自身が奴隷にならないことを保証されることは、奴隷がいることで得られる幸福度より高いということだ。

著書『功利主義』でミルは功利主義への批判を正面から打ち返そうとしており、私個人としてはその理論の完成度の高さから功利主義者になってしまった。今は功利主義の欠点も見えてきた気がするのでそうでも無いが、それでもミルの掲げる功利主義的社会は理想的であるように思える。

ミルは教育によって社会の幸福度を上昇させる行為を個人の幸福・快楽として教え込むことで、自動的に幸福度を上昇させ続ける社会を思い描いた。この社会では個人は自身の快楽を追い続けるという動物的(というと怒られるかもしれないが)欲求に従って生活するだけで社会が良い方向へ向かい続ける。
そんな社会の実現の為の道筋などは残念ながら無理があり非現実的な気がするが、理想という意味では私はミルの功利主義を推したい。

ミルは功利主義はすでに社会的に受け入れられていると言っている。その通りであると思う。
今の世界の仕組みはとても功利主義的ではないだろうか。特に立法分野では功利主義によって法が作られているように思われる。
民主主義と功利主義はそれだけ相性が良く、批判されがちな功利主義ではあるが批判されながらも影響を持ち続けている点で、優れた、かつ実用的な理論であることが分かる。

現代倫理学に多大な影響を与えたロールズの『正義論』も功利主義を論敵としており、またミルやシジウィックといった古典功利主義を認めつつ批判していくあたりも功利主義の影響の大きさが見える。現代倫理学において功利主義は無視できない存在である。

「善」「正」を見つめ直して

ミルの功利主義は理想的であると先述したし、現代社会は実に功利主義的な部分も大きいが、私は現代社会の倫理観には不満だ。

功利主義は帰結主義的と批判される。つまり結果的に幸福度が上昇するなら方法はどうでも良くなってしまう。

今はYoutubeやインスタなどその人への注目がお金になる時代だ。
つまり注目を集めることがお金を集めることへ繋がるし、何をしたって注目を集めてしまえばお金になってしまう訳だ。
極論、殺人を犯す様子をライブ配信し捕まったとしても、出所後にそれをネタにYoutubeを始めればいい。
バッシングを受けるかもしれないが、適当に謝罪して真面目ぶっていれば注目を浴びてお金も貰えるし、そのうち影響力も出てきてより注目されるなんてことも有り得る。

上記は功利主義は関係ない。誤解の無いようお願いしたい。単なる自己中心的主義だが、結果よければその過程はどうでもいいと言う考えや倫理観は今の時代だからこそ気をつけたい。
もう一度「善」とはなにか、「正しい」とはなにかを考えたいが、哲学や倫理学を蔑ろにする日本では難しいのかもしれない。



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