拝啓 貴方へ

 最期の手紙を貴方へ向けて書く事を、きっと主人も許してくれるでしょう。震える手に鞭打って書いておりますから、少し読み辛いのもご愛敬だと言って、笑ってください。
 あの日からもう長い年月が過ぎました。貴方が私に望んだ事、最後の約束を、十分すぎる程に全うしたと思います。だからどうか、安心してください。そして、読み終えましたら沢山沢山褒めてくださいね。私はまるでどこにでもいる普通の女性の様な、幸せな人生を歩みましたから。
 この国は、とても穏やかな国になりました。もうあの頃のような悲しみの日々の事など、誰も忘れてしまったかのようです。目の前で苦しむ人々が息絶えるその瞬間まで、ただ手を握りしめる事しか出来なかったあの日々は、遥か遠くの、知らない国の話の様です。毎日温かい食事をし、夜は柔らかなベッドで、何に怯える事も無く、明日を迎える事が出来るのですから、それはまず間違いなく喜ばしい事であります。貴方と夢見て語り合った、まさにそういう国でありましょう。
 貴方と過ごした海の向こうのあの街は、もう見る影もないけれど、二人通った教会の、薔薇窓から差し込む光は良く覚えています。この街に越してすぐ、同じように光差し込む場所を見つけましたから、未だに足繁く通っております。貴方の墓前に参る代わりに、あの日差しへ向かって祈っております。貴方はきっとまだ、あの草原の先にある瓦礫の山のどこかで眠っているのでしょうね。今すぐ傍に行きたいと、涙を流して願い続けたのは、もう遠い日の事です。
 主人と出会い、共に生きる事を決めた日も、貴方の隣で着るはずだった白の衣装を着た日も、初めて子を身籠った日も、平穏を営むだけの日も、涙の止まらぬ苦しい日も、思えば全て愛しい日々です。愛しい日々を積み重ね、今日まで参りました。貴方の居ない人生は、それはそれは長いものでした。けれども、幸せでありました。心から幸せであったのです。貴方がくれたこの命、確かに幸せに生きました。どう感謝を伝えればいいのかと、今はそう思い悩む日々です。まだ少し時間がありそうですから、その日までには素晴らしい方法を思い付かないものかと考えています。
 さあもうすぐ、この手紙を読み終えますね。何度でも申し上げますが、私は誠心誠意、貴方の最期の望みを叶えました。貴方の居ないこの世界で、私は幸せに暮らしました。だからどうか、どうかお願いですから、たくさん褒めて、抱きしめてください。一体何十年ぶりの逢瀬でしょう。話したい事はたくさんあります。
 では、これにて筆を置きます。近々そちらに参りますね。その日まで、もうしばらくお待ちください。
かしこ

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