雨の日コーヒー
「【夕方限定】雨の日コーヒーあります」
その言葉に引き寄せられるように、もしくは突然の雨から逃げるように、僕は古びた喫茶店へ足を踏み入れた。カランカランと小気味よいドアベルの音と共に、香ばしい匂いを全身に浴びた。
少し薄暗い店内に灯るランプの光は温かくて、それに照らされた木目調のカウンターテーブルには、赤いクッションのついた丸椅子が8つばかり添えられているだけの、小さな店だった。
「いらっしゃいませ」と低い声がした。白髪(しらが)と髭の良く似合うマスターがカウンターの向こうからちらりとこちらを見た。客は僕しかいない。少し緊張して、椅子に腰かけた。ギシッときしむ音が店中に響いた気がした。
「雨の日コーヒーください」
マスターはまた低い声で「かしこまりました」と言うと、店の奥へと消えていった。なんだ、目の前で淹れてくれるわけじゃないのか。僕はなんだか手持無沙汰になって、机に置かれた花模様のシュガーポットに描かれたピンクの花の数を数えて過ごした。
やがて、コーヒーの香りと共にマスターが店の奥からやってきた。「どうぞ」と特に愛想なく響く低い声に、僕は「どうも」とだけ返した。雨の日限定というからには、さぞ特別な味がするに違いない。一口すすった僕は、思わず目を見開いた。
ちっとも美味しくない。
僕のその顔をマスターはじっと見ていた。やがて「それ、美味しくないでしょう」と言った。僕は「ええ、ちっとも」と答えるほど自分に正直には生きていないから、いやあ、と愛想笑いでごまかした。僕のそれに気付いたのか、マスターは「いいんですよ、お気になさらず」と少し笑った。「自分はどうにも、コーヒーを淹れる才能がないようで」
マスターが言うには、いや、マスターはマスターではなかった。普段この店は、マスター……いや、藤本さんの息子さんが切り盛りしていて、藤本さんは店の掃除をしたり、食器を洗ったりするのを手伝う程度らしい。ただどうしても、雨の降る夕方だけは、店のマスターである息子さんは、奥さんと子供を車で迎えに行くために、店を空けざるを得ないのだと言う。そこで藤本さんが代わりに店番をし、コーヒーを淹れるのだ。美味しくないコーヒーを。そしてそれに気付いた常連さんたちは、雨の夕方だけは、決して店には来ないのだった。
「でもね、好きなんですよ。コーヒーが」
藤本さんは寂(さび)しげに言った。藤本さんのお父さんが始めたこの店は、藤本さんにとってもまた、大事な場所だった。しかし、美味しくないコーヒーを店に出すことを、お父さんは最期まで許してくれなかったそうだ。そして、店を継いだ息子さんもまた、許さなかった。だから雨の夕方だけが、唯一、自分で淹れたコーヒーを出せる時間だった。唯一、店の「マスター」になれる時間だった。
僕はコーヒーにミルクと砂糖をたっぷり入れながら、藤本さんの話を聞いた。藤本さんはそれを見て、お代はいりませんから、良かったらまた飲みに来てくださいと言った。
明くる日の夕方、ポツポツと雨が降ってきた。僕は、あの何とも言えないコーヒーの味と藤本さんの少し寂(さび)しそうな顔を思い出し、喫茶店へと向かった。カランカランと鳴るドアベルの音に顔を上げた藤本さんと目が合った。僕はなんだか気恥ずかしくて、「どうも」とへらへらと言った。藤本さんも同じようにへらっと笑って「いらっしゃいませ」と言った。
コーヒーはやっぱり美味しくない。でもそれよりなにより驚いたのは、藤本さんがあまりにもよく喋ることだった。あの寡黙で不愛想だったマスターは一体何だったのか。
「いやあ、だって、喫茶店のマスターってそういうイメージでしょう?」
ニカッと笑う藤本さんの歯がキラリと光った。若いころモテたんだと自ら語るだけある。ハンサムでダンディとはこのことか、と僕は思った。喋らなければ、だが。
今日こそはと、僕は雨の日コーヒーをブラックで飲み切り、お代を渡し、そして「また来ます」と言った。僕の精一杯の勇気だった。
ちょうど梅雨入りしたばかりで、雨の夕方は何度もやってきた。僕は暇を見つけては、あの何とも言えないコーヒーを飲みに通った。というよりも、藤本さんと話すのが楽しかったのだ。他愛もない雑談もしたし、時事問題に文句を言いあったし、仕事の愚痴を聞いてもらったり、恋人の居ない寂しさを嘆いてみたりした。いつの間にか、雨の日コーヒーは僕の日常に溶け込んでいた。
だから、何の気なしに付けていたニュースから「来週には梅雨明けをする見込みでしょう」と聞こえた時、ふと寂しさに襲われた。そしてその予報通り、あっという間に梅雨が明け、暑い夏がやってきた。
僕は雨の夕方以外にあの店へ行く気が起きなかった。朝から雨かと思えば夕方には晴れ、雨が降ったかと思えばその日は仕事で行かれず、そうこうしているうちに1か月以上が経ってしまった。
そうしてやっと、待ちに待った雨の夕方がやってきた。僕は急いで店へと向かった。古びた喫茶店のドアには、変わらず「【夕方限定】雨の日コーヒーあります」の張り紙がしてあった。
カランカラン、とドアベルを鳴らして店へと入る。コーヒーの香りと、ニカッと光る藤本さんの白い歯が懐かしかった。
コーヒーは、相変わらずだった。けれどもあの日初めて飲んだ時よりも、どうしてか美味しく感じたのであった。
おしまい
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