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【読書録】仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える(泉谷閑示・著)

なぜ、読んだ本を公開するのか

毎週日曜日7時~『ビジョナリー読書クラブ』というオンライン読書会に参加しています。そこでは、読んだ本の一部を引用し、自分の気付きを伝え、最後に何をするのかを宣言します。

いつも発表するときに、引用箇所を入力したり、Kindleから自分にメールで送りコピペしたりするのですが、それを消すのってもったいない。

あ!noteに残しておけば一石二鳥。
ということで、発表内容をまとめた記事を書き続けています。

読書会は、一般の方でもお試し参加もできるので、興味のある方はぜひ!

読書が苦手な方も、読書習慣が手に入ります!
読書が得意な方は、ワンランク上の読書が身につきます。

ビジョナリー読書クラブのお試し参加の詳細はこちら。

今回読んだ本はこちら。


いつものように、Kindle Unlimitedで気になった本を物色。幻冬舎の本がたくさん追加されていたので、一気にダウンロード。帰省中にたくさん読めそうだったので、20冊ビジネス書を入れました。すでにすべて読んだのですが、紹介したい本がわんさか出てきました。

それでは早速ご紹介しましょう。

【引用その1】主体性を持とう

人は「主体性」を奪われた状能のままで、自分で人生に「意味」見出すことは原理的に難しいものです。まずは、人生の「意味」を求める前に、「意味」を感知できる主体、すなわち「自我」を復活させることから始めなければなりません。

自分の人生に意味を見つけようと思うなら、それは主体的な行動であるべき。誰かが意味を作ってくれるわけではありません。自分で、その意味を見つけるべきなのです。そのために必要なのが主体性。納得です。

若い頃から、主体性を持っていなかったように思います。高校進学もそうでした。大学は自分で主体的に選びましたが、勤め先は、流れで選んでしまったようです。

また、起業は主体的に選びましたが、一部の仕事は能動的に選んでいました。すると、意味なんか見つかりませんよね……。


【引用その2】空っぽを埋めたがる

落ち込んだ人間は、自分が何かからっぽになったように感じる。まるで手足が萎えたかのように、活動するのに何かが欠けているかのように、身体を動かすはずの何かが足りないためにうまく動くことができないかのように感じる。そこで、何かを摂取すると、からっぽだとか、萎えたとか、弱ったとかいう感じはしばく消えて、自分はやっぱり人間だ、確かに何かを持っているし、無ではないと知覚する。人は自分の内の空虚を追い払うために物を詰め込む。これが受動的な人間なのである。彼は自分がちっぽけだという不安を持ち、その不安を忘れようとして消費し、消費人となる。
刺激に対する単なる反作用としての〈能動〉、あるいは外観は情熱のようでも実は外力に動かされている〈能動〉は、いかに大げさな身振りをしても、基本的には受動である。

空っぽな自分を埋めたがる。何かで埋めるとそこで安心する。場合によっては、仕事もそうかもしれないし、ボランティア活動もそうかもしれない、読書もそうだし、映画を見ることすらそうかもしれません。

枯渇している自分を埋めるために行動するのか、本当にやりたくてやっているのか。その境目って凄く重要だと思います。

載せられてやっているだけの、一見能動的な行為って今までも多かったように思います。都度都度、「これは主体的に選んだのか」って考えたいですね。


【引用その3】満たされない理由

人間が「受動」的な状態に陥ってしまうと、「空虚」「空白」を埋めてくれるもの、つまり「役に立つこと」「わかりやすいこと」「面白いこと」を渇望するようになるわけですが、しかしこれは、内面的な「空虚」から目をそらすための「代理満足」に渦ぎないので、そこには必ずや「質」的な不満足が生じてきてしまいます。代理のものでは、やはり「心」が本当に求めているものとは違うので、真の満足には至らないのです。
この「質」的な不満足に対してわれわれの「頭」は、代わりにこれを「量」的にカバーしようとあがきます。その結果、際限なく「量」だけが増大していってしまうことになるのですが、これが「依存症」の本質的なカラクリなのです。

私は年間400冊読書をしています。もしかして、満たされていないから、質を量に置き換えようとしているのかもしれません。もしそうなら、今すぐ読書をやめて、量ではなく、1冊1冊噛みしめるような読み方をした方がいいのかもしれません。

いろんなイベントに参加している人ももしかしたら、この傾向があるような気がします。セミナージプシー、勉強会ジプシー、オンラインサロンジプシーなどなど……。

確かに、依存症的になっている人もいますからね。そこってとっても大事です。


【引用その4】意味と意義は違う!

現代人が「生きる意味」を問う時には、ともすればつい、この「意味」と「意義」を混同してしまって、結局「生きる意義」や「価値」を問うてしまっていることが少なくないのです。そしてこれが、問題を余計難しくしてしまっているのです。
人が「生きる意味」を問わざるを得なくなるのは、必ずや「意義」を追い求める生き方に疲弊したからなのであって、そこで改めて「意義」を問うてみても、それで何かが見つかるはずもありません。生産マシーンのごとく、常に「価値」を生むことを求められてきた私たちは、「有意義」という呪縛の中でもがき続けていて、大切な「意味」を感じるような生き方を想像する余裕すらない状態に陥ってしまっているのです。

「意味」「意義」の違いを考えずに生きている人が多いように思います。価値を求めるような生産マシーン……これは怖いです。有意義という呪縛から今すぐ逃れないと、大変なことになります。

意味を感じるのは、本人です。決して周囲ではありません。

生産性が低いと言われても、その人って意味があればいい。世間にとって道なのかという価値基準にならないようにしたいですね。


【引用その5】正解なんてない!

良き学歴を得て良き就職をし、良き社会的地位や収入を得て、結婚し子供を儲け、家を持ち、子供を良き学校に入れ、良き習い事をさせ、等々。これら、多くの人たちが躍起になって追いかけている「価値」の諸々も、元来は、幸せに生きることを目指しての方便に過ぎない事柄だったはずなのですが、いつの間にか、それ自体が目的化してしまったものなのです。
しかし、その一方で、私たちの野性的部分である「心=身体」は、「質」を直接的に感じ取って、それを「味わう」ことができる性質を備えています。この「心=身体」こそが、私たち人間の本来の中心であり、ここで様々なことを「味わう」からこそ、私たちは幸せを感じるわけです。つまり、人が生きる「意味」を感じられるのは、決して「価値」あることをなすことによってではなく、「心=身体」が様々なことを「味わい」、喜ぶことによって実現されるのです。

学歴、良い就職先、良い生活、良い収入……。そんな物に支配されていても、結局幸せには慣れないように思います。その時代を私も経験していますが、凄く窮屈だった……。生活を味わうこともできず、凄く毎日が不安でした。

今は、自分の人生を心と体で味わっています。それができると、本当に生きやすくなりますね。自分が一番居心地のいい状態。自分の心の平静が保てる状態。そういうものを見つけていきたいですね。


【引用その6】日常が大事

何でもないように見える「日常」こそが、私たちが「生きる意味」を感じるための重要な鍵を握っているのです。「日常」を死んだ時間として過ごしてしまうと、その退屈で苦痛な時間を耐えしのぶために感性を硬直化させることになってしまい、ある時にたとえ素睛らしい非日常的体験を得たとしても、もはやそこに十分な喜びを感じ取ることさえできなくなってしまうでしょう。
しかしそもそも、私たちがこんな風に「日常/非日常」を区別していること自体が問題なのかもしれません。私たちは「日常」という言葉に、ついつい「ルーチンでつまらない時間」というニュアンスを込めてしまいがちなのですから。

日常は、生活だったり仕事だったりします。そして、非日常は、旅行だったり、友人との飲み会だったりします。「非日常」を楽しむために、「日常」を犠牲にするような考え方でした。

普段は我慢して、発散する。

でも、私たちは「日常」を生きているのです。その日常にもっと楽しみがあってもいいし、味わって生きてもいいのです。

どんな作業でも、楽しむ方法はあります。それが出来るようになってから、本当に毎日の仕事が楽しすぎます。2022年もさらに、仕事を楽しんでいこうと思います!!


まとめ&宣言

変に意味を考えすぎずに、毎日の仕事、生活すべてを楽しんでいきます。



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