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😭失うのが嫌?その心理をみてみよう🤯🌈古典に学ぶ認知バイアス【損失回避】🌈

【損失の苦痛は大きい(損失回避)】

 人は、利益と損失が同額である場合、利益で受ける効用より、損失から受ける苦痛のほうがはるかに大きく感じる。

ima訳【嘘をついた子は勘当!?】巻二十九第十一話 幼児、瓜を盗みて父の不孝を蒙ること 29-11

 今も昔も、子どもは嘘をついてその場を逃れようとすることがあります。そんなとき、嘘はよくないことだと教えるのが通常ではありますが、さて、瓜を盗み食いされたこの父がとった行動は・・・?

 よい瓜が手に入った。数にして十個。どれもずっしりと重量感があり、皮もさらさらと青い。あと一日、二日ほどが食べ頃だろうか。しかし、この時期にこれほど大ぶりなものも珍しい。
 戸棚にしまい、子どもたちに、
「夕方帰ってきたら贈り物にするから、この瓜を取ってはならぬぞ」
と言い置いた。

 夕方、帰ってみると、瓜は九個しかなかった。子どもたちを集め、
「瓜が一個なくなっている。これは誰が取ったのだ」と聞いた。すると、「私は取っていない」、「私は取っていない」と口々に否定する。
「間違いなくこれは、この家の者の仕業である。外から誰かがやって来て取るはずがない」と言って、子どもたちを正座させてさらに問い詰めた。しかし、皆「取っていない」の一点張りである。
 すると、奥仕えの女が、「昼間、一番下のお坊っちゃんが戸棚を開けて、瓜を食べていました」とこっそり教えてくれた。
 これを聞いて、子どもたちには何も言わずに、近所の主だった人々を何人か呼び集めた。

「急に集まっていただき、かたじけない。この子を、勘当かんどうするので皆さんには立会人になっていただきたい。ここに署名をお願い致す」
 署名を求められた人々は、「いったい、どういうことですか。まだ七つばかりの子どもではありませんか」と尋ねるが、「ただ、思うことがあってのことです」と言って、皆の署名を取りつけた。
 家の内の者たちの中には、「このような瓜一つを取ったくらいで、子供を勘当なさるべきではありません。常軌を逸したことでございます」と言う者もいたが、関係ない。
 家内も最後まで恨み言を言ってきたが、「つまらぬ口出しはするな」と言うと、終いには黙った。
 その子は、そのまま勘当して家を追い出した。

 数年後、その子どもが成長した姿で、検非違使けびいしたちに連れられてやってきた。律令に則って民を取り締まる任を負った者たちであるだけに、表情が険しい。連れられた男は後ろ手に縄を打たれている。水干すいかんは端が擦り切れ、裸足である。幼い頃の面影はあるが、目を合わそうともしない。
 検非違使の一人が、
「この者は奉公している家で盗みを働いた。捕らえて尋問するとこの家の者だと言うので、縁座の刑により親であるそなたを追捕ついぶする」
 と大声でのたまう。
「この者は私の子ではありません。なぜなら、この者を勘当してからは全く顔を合わすことなく、すでに数年経っているからです」と言うと、顔を真っ赤にして怒った。
「何を訳の分からぬ言い逃れを!」
「もしあなた方が嘘だと思われるなら、さあ、これを見てください」と言って、近所の主だった人の署名を受けた証文を取り出して、役人どもに見せた。また、その署名をした人たちを呼んで、このことを話した。
 署名をした人たちが、「間違いなく、先年にそのような事がありました」と言うと、検非違使の一人が別当(検非違使の長官)にこの旨を報告をしに行き、やがて、親の関知しないことのようだとの達しが下りた。こうなると検非違使たちもそれ以上問い詰めることも出来ず、その男を連れて返った。

 後に聞くところによると、その男の犯行は明らかな事なので、牢獄に入れられたとのことであった。こうした次第で、「勘当まですることではあるまい」と思っていた家の者どもも、「大変賢い人だ」と噂しているようだが、どうでもいいことだ。

【自分の瓜】

 瓜ごときで勘当とは…ちょっとびっくりする話です。平安時代における瓜の希少性については後述するとして、ここでは【自分の瓜】と【あそこにある瓜】で比較して思考実験してみましょう。

 この男性が、隣の主人から、
「おいしい瓜が手に入ったから夕方にでも食べにおいでよ」
 と言われていて、食べに行ったら、
「あ、ごめん。あまりにおいしくてうちの子達が全部たべちゃった」
 と言われたら、その子や隣の主人に害を及ぼすような気持ちになるでしょうか?
 まあ、おそらくならないですよね。【自分の瓜】ではないので、失われても精神的ダメージは少ないです。

 それが【自分の瓜】になるととたんにダメージが大きくなる。瓜でわかりにくい人は一万円に置き換えてみましょう。

A「昨日あげると言われていたお小遣い一万円がもらえなくなった」
B「財布に入ってはずの一万円がなくなった」

 どちらも一万円の損失という収支は同じですが、Bの方が「嫌」じゃあないですか? これが【損失回避】という認知バイアスです。人は、失うことの方がダメージが大きいので、回避しようとするのですね。

【ちょこと後付】

 江戸時代中期の有職故実書である伊勢貞丈著『貞丈雑記』巻之六「飲食部」には、

菓子の事は、いにしえ菓子というは今のむし菓子・干菓子の類をいうにはあらず、 多くはくだ物を菓子と云うなり

 とあります。つまり、果物は菓子であり、ごちそうだったようです。当時よく食べられていた菓子(果物)は以下のようなものです。

春の味覚  梅子(うめ)  枇杷子(びわ)
夏の味覚  李子(すもも) 梨子(なし)
秋の味覚  桃子(もも)  生柿(なまがき) 栗(くり) 瓜(うり) 
冬の味覚  甘子(こうじ) 胡桃(くるみ)

 それにしても、瓜を食べただけで勘当するなんて厳しいですし、その結果子供の罪の縁座(連帯責任による罪)に問われなかったことを「賢い」と評価する今昔物語の人間観はなかなか冷徹です。悪人はあくまで悪人であるというのが、平安の考えだったのでしょうか。失敗をもとに成長するという現代の人間観は、時代を超えた普遍的なものではないのだと思わされる話です。

【参考文献】

新編日本古典文学全集『今昔物語集 ④』(小学館)

原文はこちら

この話を原文に忠実に現代語訳したものはこちら