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現代小説訳「今昔物語」【べん、べ、べん、べん♫ 第二部】巻二十四第二十四話 玄象という琵琶が鬼に取られた話 現代小説訳 24-24

 今も昔も、音楽というものは国境を越え、言語の壁を越え、人の心を打つものです。撥弦楽器である琵琶は、音と音の間の無音すら雄弁な語り手となって情緒を訴えてくるかのような、不思議な音色をもっています。その琵琶の中でも名器とうたわれた玄象げんじょうがなくなったことから、この物語は動き始めます。べべべん♪

 琵琶の音が聞こえる。
 夜半も過ぎているのに誰だろうか。博雅ひろまさは起き上がり、耳を澄ました。他の仲間はみな寝ている。虫の音すら聞こえない。しかし、南の窓から、かすかに琵琶の音が聞こえる。この透き通るようでいて細かく震える音色は、まさか玄象げんじょうではあるまいな。博雅はそろりと布団から抜け出た。
 皇室に伝わる琵琶の名器、玄象げんじょうがなくなったと聞いてから数日が経つ。しかし、まだ見つからない。誰かが盗んだか。盗んだにしろ、奏でた途端に玄象だとバレて捕まってしまうだろう。だから人々は天皇をよく思わないものが盗んで壊してしまったに違いないと噂していた。しかし、博雅は違った。
「見つけたら、玄象を弾けるではないか」
 国宝を盗んだものが何者でどんな目的なのかとか、玄象は無事なのかとか、博雅はそんなことに心を煩わせていなかった。世間の人々は並ぶもののない管弦の名手と博雅を尊んだが、本人は、ただただ玄象を弾きたいと考えるだけの男であった。何しろ玄象といえば、内裏から持ち出すことも許されず、弾くには天皇の許可が必要であり、たとえ天皇自身であったとしても秘曲の伝授など限られた時にしか弾けないという秘宝中の秘宝である。

 直衣のうしくつだけを履き、侍詰所から出た。音は南の方から聞こえる。幸い、月は出ていて夜目はきく。が、朱雀門を過ぎ、朱雀大路に立つとさすがに大路の向こうまでは見透かせない。いや、向こうどころか、左右の塀すら見えない。何しろ幅だけでも28丈(84m)、長さは一里(一里は約三.八キロ。朱雀大路は三.七キロあった)はあろうかという大路である。時折、暗がりの中で影が動くように見えるのは放し飼いにされている馬、牛であろうか。最近は大路をねぐらとする盗賊も多いと聞く。
 一瞬の躊躇ちゅうちょに節をつけるかのように琵琶の音がかすかに鳴る。大路の向こう、南の暗がりから聞こえる。気づけば、南へ足を早めていた。まだ、聞こえる。もう、そこか。まだか。音の出どころを求めてさらに歩むうちに、いつしか大路の南端、羅城門に着いていた。ここから先は平安京の京域外、洛外である。

 門の下に立つと、果たして、琵琶の音は門の二階から聞こえてくる。遠く聞いていたうちは、一音一音試すような弾き方だったものが、今や旋律を伴っている。
−−−これは流泉か。いや、流泉の一部を、記憶を頼りに試し試し、繰り返し弾いているのか。
 流泉は、限られた楽士のみの間で伝承されている門外不出の秘曲である。それを玄象で奏でている。音を探るように弾いているので拍が伸びて間が長いが、かえって玄象の音の深さが引き立ち、この世のものとは思えない旋律になっている。博雅は肌が粟立った。
−−−髪の毛も太るとはこのことか。
 演奏の技術は明らかに拙いのに、その音は月夜の羅城門の輪郭を震わせている。思えば、羅城門から宿直をしていた清涼殿までは一里以上はある。決して、大きな音ではないのにこの音は届いていたのだ。拍と拍の間にもどこまでも空気を震わすような不思議な余韻がある。
−−−これは人が弾いているのではあるまい。鬼か。きっと、鬼か何かが弾いているのであろう。
 と思ったとたんに弾き止んだ。しばらくすると、また弾き出す。弾きたくて、触りたくてたまらないかのように。博雅は声を張り上げて言った。
「これはいったい、どなたが弾いておられるのか。数日前に玄象が消え失せてから天皇が捜し求めておいでになるが、今夜清涼殿にてこの見事な音を南の方へ聞き、ここまで音をたどって参った次第」
 音がぴたりと止む。しばらく待つが、今度は弾く気配がない。
「それがし、源博雅と申すもの。管弦には少しは心得があるが、貴殿の演奏に心打たれ申した。ぜひ、お顔を拝見したい」
 玄象を取り返そうとか、下手人を捕らえようとか、そんなことを博雅は考えていない。ただ、このような見事な音を紡ぎ出す御人の顔を拝見したいと願ったのだ。すると、上から何かが降りてくる。博雅はぞっとして思わず後ずさったが、よく見ると、玄象に縄をつけて降ろしてきているのだった。
 縄の上を見やるが、縄は二階の小窓から出ていてその先は見えない。と、玄象は博雅の胸の高さでぴたりと止まった。おそるおそる縄をとると、縄はしゅるしゅると二階の小窓に消えた。手には玄象が残った。博雅は深々とお辞儀をすると、北へと戻った。
 
 玄象は博雅の手により天皇の元へと戻った。国宝を鬼から取り戻したとして、人々は博雅を褒め称えた。しかし、当の本人は、なんであのとき玄象を弾かなかったのかと、そんなことを悔やんでいるということだ。

ちょこと後付

 博雅が宿直していた清涼殿は京の都の北に位置します。そして琵琶の音を追ってたどり着いた羅城門は都の最南端。距離にして六キロ以上離れています(京阪電車で五駅あります)。物理的には琵琶の音が聞こえない距離です。だからこそ、鬼が奏でたからとか、博雅に見つけてもらうために玄象の音が時空を翔んだとか、読者側がいろいろと想像をたくましくする余地もあるのかも知れません。
 羅城門は後に羅生門とも呼ばれるようになり、芥川龍之介の小説「羅生門」のモチーフともなりました(巻二十九第十八話 羅城門の老婆の話)。当時、都は魑魅魍魎から人の住む地を護る結界の役割ももっていました。鬼門を延暦寺・日吉大社・貴船神社・鞍馬寺で護り、裏鬼門を石清水が護るという壮大な結界です。その出入り口が羅城門です。つまり、羅城門は人ならざるものの異界と人の住まう洛中を隔てる境界線なのです。だから羅城門には鬼が住むと噂されていました。しかし、琵琶を奏でる鬼とは、何とも風流な鬼もいるものです。

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【参考文献】
新編日本古典文学全集『今昔物語集 ③』(小学館)