『笑う道化』の自分を認められるようになった。
いつからか、笑うことが癖になった。本当に面白いこともつまらないことも笑えるようになった。
中学生の時から、言いようのない虚しさが立ち込めることがあった。ずっと心の奥底で煙が立ち込めて、喫煙室のように煙たさが充満して閉塞感がひどくなった。最近はだいぶ換気出来たみたいで、中学生の時のような閉塞感を抱えることも少なくなったが、それでも消えたわけではない。まだ微かに蟠りが残っている気がする。それと中学生の時に太宰治の人間失格を見た時は衝撃的だった(中学生あるあるだと思う)
主人公が最も卑下していた人間に自分が周りに対して、道化を演じていることを見破られてしまい恥のような焦りのような気持ちを抱くシーンが印象に残っている。まさに僕じゃないかと。今も昔も人は変わらないことを知った。
きっとどんな人間でも道化を演じて、笑っているのではないだろうか。
今思えば友人は居るけど、一人が好きで本ばかり読んでいるような暗い人間だったと思う。今の自分もそうだが、だいぶ人間関係では気持ち的に楽になって来た。小学校の時のクラスメイトと話した時に、一人で本を読んでいる印象が強かったと言われたこともあった。それだけ他人と関わることより、自分の世界に閉じこもって傷つかないように心を守っていた。それでも、友人がいない寂しいやつと思われたくなくて、必死に笑って周りと溶け込んでいた。あれ面白かったよね、あの漫画やアニメが面白いと周りと合わせては何が面白いのか分からないけど笑っていた。まさに道化だ。笑うことしか許されない、ふざけて周りを不愉快にさせることは道化にとって死ぬことと同じだと思う。
気付いたら愛想笑いも、本当に面白いと思っても笑う必要がないシーンでも笑ってしまうことがある。友人や誰かと話していても気付けば口元が歪んでいる。もちろん、意識すれば真面目な顔も悲しい顔もできるけど癖になってしまったようだ。この癖のおかげか分からないが、人当たりがよく社交的な人間だと思われている気がする。決して悪い方向に転がっていないから別にいいかと思っている。
最近仲のいい友人にこの事を話せるようになった。笑ってしまう事や今の自分の気持ちを吐露したかった。結果的に言うと、そうなんだ、ふーんみたいな反応だったので拍子抜けした。勇気を出して話してもそんなものかと思うと同時に、そもそも誰でも愛想笑いはするし、腹がよじれるほど笑うこともあるだろうと言うことだ。
皆んな、何処かで道化を演じて来たのだろう。
演じざる追えない状況、いや舞台に立たされてしまうのだ。舞台の前では自分を出すより、道化を演じて楽しませなければ誰も必要とされない。言うなら、舞台を盛り上げる必要な人間である。トランプのカードにジョーカーがないのは物足りないのだ。
道化だろうと最後まで演じ続けることで誰かが笑ってくれるのなら、無表情な観客より最後まで道化として笑い続け、幕が降りるまで演じ続けた方が達成感があるのかもしれない。
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