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「障害者なんだから皿洗いでもやって引っ込んでろ」と言われたことがきっかけで考え続けてきた、わたしの「働く」ということ

きのう、久しぶりに、かちんとくることがあった。

もちろん、わたしはしょっちゅう「そのものの言い方はないだろ」などといったささいなものの言い方をめぐって、かちんとくることはあるのだけど、それはそのときだけかちんとなっているだけでたいしたことなかったりする。

でも、きのうのケースは、「自分」のなかに、土足ずけずけと踏み込まれた、境界を脅かされたことによる、ぜったいに許してはいけない、かちん、だった。

よくある嫁姑問題ととらえてしまえば、それまでのことかもしれない。

だけど、自分ではそんな嫁VS姑だったり、個人対個人の問題、のように簡単にはすましてはいけないように思った。だからこそ書いておこうと思う。

きのう、義母から夫のことをめぐってメッセージがきて、それにからめて「mieさんも最近どう?」などと聞かれたので、次の予定も立て込んでいたこともあって、さほどなにも考えずに、「最近は気づいたら飲食店の仕事を複数かけもちしていて毎日ハードですね。今月末に資格試験もあるのですが、なかなかその時間が作れなくて、焦っています」と返信した。

そしたらなんと、「◯〜くん(夫の名)がなんのためにあんな過酷な仕事を選んで働いていると思っているの。いますぐ仕事をやめなさい」言われれた。

そうだ、義母は、よかれと思って、しょっちゅう人の境界を土足でずけずけ入ってくるタイプの人だったんだと思い出し、慎重さを忘れて、ついつい警戒を緩くしてしまった自分を責めて反省したりもした。

どんな仕事をするかしないか、どんな仕事を選ぶか、それはわたしが決めることだ。

そう強く思うようになったというか、自分がそう思わなきゃ誰が思うのだ、と強く思うようになったきっかけは、若くて不安定で、精神のバランスをよく壊して、精神科閉鎖病棟への入退院を繰り返していた時期のことだった。

そんなときに紹介されたフリーランスのソーシャルワーカー(精神保健福祉士)から言われた、いまでも忘れないセリフがある。

「あんたは障害者なんだから、これからは(飲食店の)皿洗いでもして、一生引っ込んで生きていきなさい」というものだ。

そのワーカーとの出会いは、入退院を繰り返すわたしにたいして主治医が「これからはもう働かずに、障害年金で生活をするように。そのために、まずは障害年金の申請をするように」と言われ、わたしは、いきなり出てきた「障害年金」というワードが初めてで、どこにどうやってすれば申請できるのか、わかりかねていたときだった。

そんなとき、仲が良かった役所勤めの人から、「この人に頼むとぜったい1級なるという、すご腕の人がおれの町にはいる」と教えられ、つなげてもらった経緯がある。

(いまとなっては、そういうことは年金事務所がやることで、社労士にお願いすればいいということを知ったけれど、田舎町の役所の人だから、社労士という存在があることも知らなかったと、あとで言われた)。

わたしはそのとき、まだ若くて、恥ずかしながら年金、ましてや障害年金なんていうもののしくみがミリもわからなかったのと、知らない田舎町で、閉鎖病棟に入院して、外にも出られずなにひとつ一人でできる状態でもなかったから、その、<障害年金というものを主治医に言われた通り申請をしてくれる人>に、すべてを委任して手続きをお任せすることにした。

それで、わたしはその人の見立て通り、あれよあれよといううちに1級の障害者になってしまい、もうこれ以上、無理してなじめない場所で暮らしたり働いたりすることで、精神のバランスを崩して入退院をする必要もなくなって、最悪あとは、福祉という柵にいろんな意味で守られたグループホームで、障害者作業所での雀の涙みたいな工賃を得ながら、平和に暮らしていける枠組みを手に入れられることとなった。

だけど、その際に言われた精神保健福祉士から言われた言葉が、わたしがこれからそんな人生を送るのを、思いとどまらせることとなった。

「もし仮にまた働きたいと思ったら、また、これまでのキャリアを生かしたりとかして、わたしは普通の世界で働けるのだろうか」と彼女に質問したところ、「また働きたくなったら、これからあんたは、(飲食店の)皿洗いでもして、引っ込んで生きていけばいいのよ」という答えが帰ってきた。

皿洗い「でも」…。

これまでわたしは、大学でジャーナリズムを勉強したのち、10年近く全国紙の新聞記者をやって、ワークライフバランスを見直したいこともあって、東北地方の山間の小さな町に、地域おこし協力隊という制度を利用し、移住をした。

閉鎖的で陰湿な町に暮らすことは、自分にとって、とても馴染めなかった。いつも「早く東京に帰れ」とか、根も葉もない噂話やいやがらせは日常茶飯事で、でも帰る場所もなくて、環境への不適合で、精神の調子がおかしくなってしまった。

いま長い目で、振り返れば、合う環境さえあれば、わたしは全然健やかだ。環境が大事だというだけの話だったのかもしれないと思ったりもする。

でも、その精神保健福祉士は、現状のわたしのそんな経緯を受けて「あんたは、マスコミとか、じゃらんじゃらんしたイケイケミーハーな世界は合わないのよ。あと、あんなネーミングからしてきもい地域おこし協力隊なんて、そういう人の表に立ってなにかするのなんて、あなたにいちばん合ってない、やっちゃいけないものだったのよ」と、母親くらいの年齢だから、彼女自身、わたしを「まるで娘のようだから心配で心配で」ともいつも言っていたし、「親心で」と「あなたが二度とそうやって傷つかないように」と言っていた。

そんな話の流れからの「あんたは障害者なんだから、これから皿洗いでもやって、引っ込んでいればいいのよ」だった。

だけどわたしは、その「皿洗いでもやって、引っ込んで生きていればいい」という言葉が、ずっとひっかかって、何度も頭の中で繰り返されては、いつまでも納得できずに、もやもやし続けていたのだった。

それからわたしは、それからもいろんな町を転々とすることとなり、いくつもの業種のさまざまな仕事を体験してみることになった。

だけど仕事は、皿洗い以外のものを選んだ。

それは、ほんとうにわたしは、「皿洗いでもして、引っ込んで生きていればいい」のか、への疑問への、自分なりの答え探しでもあったし、反発でもあった。

少しだけ、同じ新聞記者ではない、テレビ局のほうの記者も1年間ほど経験して辞めたのだけど、その精神保健福祉士に言われたからではなくて、自分自身が、ほんとうにわたしは、新聞よりもさらに強烈で派手な、じゃらんじゃらんしたイケイケなマスコミの世界はとても苦手なことを、身をもって感じることができたから、それは納得できてよかった。

あとは、自分が「障害者である」ということが、あらゆる職業選択においてめんどくささや制約や、見かけ上は人前では器用に普通を演じられてしまうカメレオン人間なこともあってだけど、クローズにすることでのうしろめたさなどを呼ぶのではないかと思い、みずから精神障害者福祉手帳(1級)を返納したりもした。

役所の窓口の人からは、「なんで返納するんですか?そんな人、前代未聞」「返納したらもう取り戻せない権利なんですよ?」「もったいない」とか、すごく驚かれた。

でもわたしは「返すって思ったら、返すから、もういいです、障害者は」と言って、返してきたのだった。

でも、手帳を返納しても、しなくても、障害者にたいして、偏見がある人はどこまでも偏見をむけて差別的な目でわたしを見るけれど、手帳があってもなくても、そうじゃない人はどこまでもそうじゃないと、いろんな人と出会ったり恋愛をしたり結婚をしたりで感じるにいたって、

手帳の有無でもなく、障害者であるかないかでもなくて、自分次第でしかないのだと、そう最後には実感するにいたった。

それまでにすごく時間もかかってしまったし、負わなくてもいい傷もたくさん負ってしまったけれど、自分でそうやってやってみなきゃ、わからなかったから、これでいいんだろう。

で、いま、その精神保健福祉士の養成校で「支援」のなんたるかを自分の目で見て学んだのを経て、あのとき年金のプロではない人に自分の年金を任せてしまった自分の無知さをもう2度と繰り返したくないなという思いもあって社労士の予備校に通いながら、いくつかの飲食店をかけもちして働いて、生計を立てている。

で、あれだけ自分のなかで、複雑な思いのあった「皿洗い」を、わたしは気づいたら、毎日普通に空気のようにやっている。

結論は、都心だからなのかわからないけれど、皿洗いだけやって引っ込んでいられるほど、皿洗いはそんな「皿洗い『でも』」だけで片付くような単純な仕事ではなくて、ホールなり調理の人が、合間で気づいた人が超マルチタスクななかで洗い場を回して、なんとか店の営業を維持しているというのが、実態だった。

いまはイタリアンとチャイニーズと日本料理をかけもちしながら、スキマの単発でもわたしは別の飲食店(居酒屋とか)を好きでヘイヘイとやってるので、いろんな飲食店を見てきているわけだけど、たしかに、ホテルのバイキング会場だったり、たとえばbills的な広いホールとかだと、技能実習生のような東南アジアの方が専属でやっていたり、いない日はヘルプで単発バイトを専属で要請する日とかがあったりする。

障害者雇用とかになれば、専属もあるのかもしれないけれど、自分はまだ見たことない。

ほかにも、高級なホテルだと、ほんとうに洗い場のプロと言われるレジェンドみたいな人もいて、腰の曲がり方とか風貌とかが、10代のころからずっとそれ一筋みたいな職人でかっこいいおじいちゃんもいる。

なんなら、いまの夫は、奇しくも、フリーター時代、帝国ホテルで洗い場を極めた、将来洗い場のレジェンドになる人なのではないかと思う。

いまも別の本業の合間に、都内の高級ホテルの洗い場専属として呼ばれていて、丁寧にスピーディーに何百枚も皿を洗ったり拭いたりするテクニックが、飲食店民が片手間の罰ゲームみたいな感覚でやっている何倍もすごいとわたしは思うし、皿洗いのオペレーションや、機種や性能の研究にも余念がない。

将来は、洗い場の地位向上やオペレーションの最適化もはかる「洗い場コーディネーター」になる野望もあるらしくて、近々メディアからインタビューを受けるのだとか。

だから夫に、そんなわたしの先述の精神保健福祉士から言われた言葉を言ったら、ただただ「洗い場をなめんな」と言われて、終わってしまいそうだ。

そんなふうに、わたしは気づいたら、普通に皿洗いだって、仕事にできるようになった。

どんな仕事だって、仕事であって、わたしが選んだ仕事なのだ。

この文章は、だから、義母の悪口から始まったかもしれないけれど、もはや義母の悪口ではなくなって、自分の職業選択は、自分のもの、と感じるようになった、わたしの記録となりました。

めでたしめでたし。

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