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拝啓ベビーカー様 誰もがマイノリティ性を持ち合わせているとして

さいきんは、都内のとある日本料理店で、楽しくお仕事をさせていただいております。

きょうも、いつもどおり楽しくお仕事を終えられるはずだったけれど、最後にすごくがっかりすることがあって、いろいろ思いの丈も詰まってきたので、文字にしてみようと思い立った次第です。

(基本的にわたしは、おもしろかったこと、いいことは、「そのとき」「いま」が最高のピークなので、

ほんとうは、ネガティブなことではなく、そういうことを、誰かがわたしの文章を目にしてくれた際には共有できるように、そういうためにほんとうは文章って書かなきゃいけないのではないか、という圧のようなものを常々感じるのだけど、

おもしろかったこと、いいこと、心温まることって、やっぱ繰返しになってしまうけど、「そのとき」がピークだから、あえて書き残すのがナンセンスに思えて、

だからやっぱり、わたしが書くのは、そのときには表出できなかった、もやもやとして、そのときには表に出さずにあえて眠らせている部分だったり、ふつふつとおなかの中でわきあがりつつも、そのときには成仏できないものとかになっちゃうんだよね。

だから、書くもの全部、暗いっていうか、ネガティブっていうか、抑圧された部分っていうか、もやもや、ぐつぐつしている部分になってしまうのだけど、

実際のわたしは、リアルで知ってる人はわかるとは思うんだけど、基本にこにこ、ほんわかして、ご機嫌な人です。

楽しいことは、別に記録しなくても、そのときがいちばん最高ってわかってるから。

だからたぶん、アルバムとか、アーカイブとか、そういう過去から振り返るためのものを作るのは、ほんっとーにまったく興味がない。

そんな時間があれば、いま、そのときをそのまま感じてたい、というタイプなので。

念のため。注意書きです。言い訳が長くなりました。ごめんなさい)

ということで、表題にある、拝啓ベビーカー様へ、というお話です。

その、働いている日本飲食店のランチタイムの2回転目に懐石料理を食べにきたベビーカーに赤ちゃんを連れた女性が2人いらっしゃり、和式の個室にご案内しました。

お店には、エントランスから各部屋に行くのに段差が数カ所あって、毎回、ベビーカーの方は、見ていて大変そうです。

苦戦はするけど、同じグループの人同士だったり、店員だったりが、なんとか協力して出入りしています。

きょうは、彼女たちがテーブルでお会計を済ませて帰る際に、ベビーカーの車輪がうまく降りられなくて、苦戦されているようすでした。

それでもどうにかこうにか、お店を出られたのですが、店を出てお見送りする際に、「店員、気が利かなすぎ、むかつく」と吐き捨てられて、がっかりしてしまったのでした。

店員はわたしだけじゃなくて、ほかの店員もお見送りを一緒に見守っていましたし、彼女は、小さい声で、わたしに対してではなく、連れのママ友に対して、言っていたのだけど、

わたしは基本、お店にいても、お客さんの会話とか、なにしゃべってるのかとか、いやでも全部耳に入ってしまうのです。

耳がいいとか地獄耳というか、自分の特性上、どんな会話も拾っちゃうという、性能のよすぎる聴覚があります。

別に聞きたくないのだけど。聞こえなければ、別に気にならないのだけど、まいど、お客さんの会話の内容にシンクロして、こっちまでどよよんとした気分になってしまったりとか、引きずられたくないけど、そうなってしまうの、どうかなりたいんだけどね。どうすればいいんだろうね。

ちょっと話が逸れたけれど、ここでは、世間的に「正しい」こととか、無視して書きますね。子どもは未来の宝だから大切にしましょうとか、飲食店での接客はキッズファーストが当たり前だからそういうインフラを整えるほうが先だろうとか、そういう道徳の授業の時間じゃなないんで。

そういう話したい人は、道徳の授業を学校でいつまでも受けていてくださいね。

とにかく、わたしは、「店員、気が利かなすぎ。むかつく」と言われたことに(直接言われたわけではないのに)、すごくがっかりした気持ちになって、がっかりどころか、こっちもむかついたわけです。

たしかにわたしは、ベビーカーが段差に困っているのに、一緒になって、ベビーカーをお母さんに替わって運んでしまうような、たまに駅の階段で見るような、子育ての大変さわかってますみたいなさわやかスーパーマンが、段差や階段なんてものともせず、余裕で運んじゃうような、そんな社会の模範のようにして、手を差し伸べることができなかった。

もっと社会の模範的な支援のやり方は、あることも知っている。

ただ、わたしはわたしのできる範囲で、わたしが思っている常識の範囲で、赤ちゃんが、お母さんが段差を通るのに一生懸命になってるときに、ベビーカーから落ちてしまわないかとか、そうなったときにいつでも手が差し出せるようにスタンバイしているとか、

ほかのお客さんだったり、壁にぶつかって事故につながらないかとか、わたしなりには気を配った。

だけど、あのベビーカー連れの2人というか、その不満を店の前でぶちまけた、うち1人の女性は、そういう「引いた」役割ではなくて、もっと、先述の、子育ての大変さわかってますみたいなスーパーマンみたいに、社会の模範ともいえる役割を、店には期待していたのだと思う。

だから、その役割の期待のギャップの結果、役に立たない、というジャッジを下したのだと思う。

推測でやかましいと思われる方もいらっしゃるかもしれないけれど、これまでもきっと彼女は、あらゆる公共交通機関だったり、飲食店だったりを利用するときに、ベビーカー連れで、たくさんの苦労をしてきたのだろう。

この苦労は、少なくとも初めてではないだろう。

それで、いろんなことをわたしは思った。思ったことだから、たわごとだから、それをここで言うことくらいは許してほしい。

自分も、たとえば、はたからではわからない障害を持っている身として。

たとえば、電車では、ヘルプマークを出しているけれど、それで配慮してくれる人もいれば、してくれない人もいる。

だけど、配慮してくれた人には、あるいは、自分の障害をめぐって、手間をとらせてしまったり、時間をそのために、1分1秒でも割いてくれた人にたいして、感謝の気持ちをわたしは伝える。

自分は、公共の場で、多数ではない、少数である身だからといって、思いやってくれたことに対して、それが当たり前だとは思わない。

思いやる義務もない。

誤解しないでほしいのは、ここで言いたいのは、自分もがまんしているのだから、お前もがまんしろという話ではない。

もちろん、誰もが誰もに思いやれる社会になれば、いざこざなんでおきないわけで、そんな社会になればいいに決まっている。

だけど、それは、理想論で、現実じゃないから、わたしは、いま、思っていることを、ここで言っているのだ。

マイノリティにも優しい社会に、とか、多様性がある社会になればいいと、みんな言う。

議員とかも、そういうことを言って、出馬する。

だけどそれは、よくよく話を聞いてみると、自分の少数性だったり、自分にとって利益のある少数性たいしてだけ寛容になってくれさえいいと思っている人が大多数だったりする。

だからみんな、他人の少数性には、興味を持たない。やさしい社会になってほしいと言うくせに、自分にとってやさしくなってくれればそれでいいという矛盾をはらんでいることも考えもせず。

自分の少数性を理解してくれない社会だからクソだ、ゆえに、それを理解してくれる人がいれば、その人はわたしをわかってくれているスーパーマンだと持ち上げ、それ以外はクズとこき下ろしたり。

その象徴がきょうのお客さんだなと思って、「ベビーカー様」と名付けてみた。

それにわたしは、マイノリティというものは、限られた珍しい、ほんとうに少数の人たちのことを指すのではないと思っている。

誰もが少数性を持っている。

誰もが自分の少数性を認めてほしくて、ほかの少数性はずいぶん認められて優遇されているのに、自分の少数性を認めてくれないから、そうやって毎日、かんたんに言ってしまえば、○○だけいい思いして得してずるい、自分は損している、ということを、大人がいろんな言葉だったり、政治だったりのパワーゲームをしながら、理屈をこねて複雑化して、ただただ領土の取り合いをしているように思う。

そんな現実だからこそ、それぞれの少数性を抱えた、わたしもそのひとりとして、自分のために思いやってくれた人には、惜しみないくらいにすごくすごく感謝するし、

自分が居合わせることになった空間で、迷惑にならないように、もし、それでたとえばそこに居合わせた誰かに迷惑をかけたとしたら、これ以上かけないように、たとえば時間を最小限にしたり、自分で環境を調整するように試みるという「思いやり」をする。

そんななかで、たとえば、飲食店や百貨店が、ベビーカーにとって、こういう場であるべき、と、ベビーカー連れはそれが正しいと言うかもしれないけれど、そうあることが当たり前で、そうでないからけしからん、とだけ吐き捨てるのはちがうと、わたしは思う。

もちろん、そういう意見はあってもいいのだけど、それだけではちがう、という前提で考えられた発言でないのならば、やはりそれがすべての答えではないと思う。

たとえば、わたしにおいての、外からはわからない障害においても、それで自分にとって「障害」だと思ったとしても、もちろん可能な限りのヘルプや支援を求めるときもあるけれど、そこでほかにも誰がどんな少数性を持っているか、推量れない状況ななかで、自分だけが負担をかける存在にはなりたくないし、

自分もどうやったらそうした周囲の負担を避けたり最小限にする方法があるのか、必要があったら事前に自力で情報収集もするし、準備もするし、障害を感じる環境がなるべく避けられる方法を考えたり、こちらでできることや努力もする。

それが、自分がその場でできる、「思いやり」だと思うし、今回は、ベビーカーの人があまりにも目にあまったから思ったけれど、ベビーカーという、少数性を持って移動するものとしての最低限の思いやりを持ち合わせていれば、あのように吐き捨てて、これまでの世の中への恨みつらみも結集したようなあんな醜いものを、わたしまでぶつけられて気分悪くさせられなくてもすんだのになと思う。

「ベビーカー」というキーワードを書いたとたん、子連れ女を敵視している子なし女みたいな敵対構造で語られがちな風潮だけれど、

ベビーカーの女性の大変さを理解しない女性を、勝手に「子なし」と認定したり、そういう男性を、子育てにろくに参加しないだめなやつみたいに、大変さを理解しているほうが上だのえらいだのみたいな態度を取られることも、すごく失礼だしいやだし、いつからベビーカーやお子様だけに配慮さえしていれば、敵に回さなければ飲食店的には間違いないみたいな思考停止になったのかと、わたしは言いたい。

もっと言わせていただければ、個室を利用したとしても、その個室はあなたがたの授乳室ではない。

授乳を隠すケープをしながら、彼女たちはコース料理を食べていたのだけれど、授乳中なのに料理を運んだり下げるな、飲み物のオーダーを取りにくるな、授乳中なんだから気遣え、という態度も、そこまでの配慮を求めるのならば、配慮を求める側の説明が必要なのではないかと、わたしは思う。

あくまでも、コース料理を食べに、ここに来ているのだから、授乳室はここではないのだ。

あらかじめ伝えている閉店の時間を過ぎても、居座って話し込む彼女たちが、授乳中であることで、気を遣って声をかけずに、特別に店の営業時間を延長することはできない。

だったら、そこまでの要求を見ず知らずのものに求めるのなら、それなりのことを受け入れてくれる場所なり理解を求めることが、彼女たちには求められる。

こちらも追い出したくないけれど、やはり、閉店を過ぎてしまったなりの、ベビーカーありなし関係なく、スムーズな振る舞いするのが、思いやりだし、マナーだと思うのだ。

もちろん、そうじゃない、ベビーカーをひく女性(男性)は、もっともっとたくさんいることも知っている。

だけど、ベビーカーをひいていようがいまいが、子どもを産んでいようがいまいが、「思いやり」のない言動というのは、あまりにも目にあまるよ、いい加減にせいよ、とわたしは言いたいのでした。

「お客様」がベビーカーをひいていると、子連れだと、飲食店だと、そういうこと思ったりするのが人でなしみたいに扱われるのも、腫れ物みたいに特別感だす文化とか、ほんとうにやめてほしいなあと思います。

ひとりひとり対等なお客様で、わたしは接したいし、そうありたいなあと、互いに思うし、自分も飲食店が好きでよく利用する身として、お客としてふるまいたいなあと思うのです。

「思いやり」について話したかったのです。

思いやりです。

お互いが気を遣い合って、同じ空間にいるわけであって、自分本位なふるまいになっていないか、〇〇様なんて皮肉めいて言われちゃう存在の方々に、いまいちど、考えてほしかったのです。




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