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気づいたらいつも「ケアラー」になってしまうのはなんでだろう

ことしの9月まで働いていた、日比谷のイタリア料理店の店長(男性)は、いい人だったとは思う。

だけど、関係性というものにおいては、わたしとは、わたし自身、そんなふうに、また自分からその職場を去らなければいけなくなるなんて、最後の最後に限界がくる瞬間まで、思ってもいなかったけど、よくないものだったんだな、ということを、わたしはまたひとつ、知った。

いつからが分岐点なのかはわからないけれど、わたしはいまだに、これまでの人生において、そのイタリアンの店長のように、気づいたら、自分がケアする側で、相手が完全にケアされる側になってしまう関係性になることが、ごく稀ではあるのだけれど起こる。

逆にいうと、100人中99人くらいとはまともというか、なんら問題ないのに。

だけど、わたしの人生を変えてしまうのは、その稀な、ケアする関係性になってしまう人だから、やっかいなのだ。

それが、幼い頃から、家庭内でケアラー、いまでこそ一般的な言葉にもなったいわゆるヤングケアラーといわれる役割を強いられていたから、その関係性を再現しようとしてしまう、というのは、比較的早い年齢のうちに気づいてはいたけれど。

そういう関係性を自ら率先して作って、安心しようとして、そういう関係性を、普通の考えではきっと理解できないだろうけど、自分がそれがつらくてしんどくても、そういう関係性を作っているほうが、安心でいられると思ってしまう自分についても、比較的早いうちに気づいていたけれども。

気づいてはいるけれども、やめられなかったり、気づいたら、またそんなかんじで再現されてしまっていたり…ということを繰り返して苦しんできた、というのが20歳代から30歳代半ばの”気付きの第一期”とよぶのだとしたら、

”第二期”のいまは、そういう関係性に陥りそうになったら、そうならないように自ら防止するように考える、距離を置く、という対策や対処がとれるようになってきたと、自分では思っていた。

ちょとあやうい関係性に行きそうになっても、「え、いまもうこれ、わたしがやってるのって、『ケア』だよね?」と自問自答というか、セルフつっこみを入れて、そこから自ら距離をとったり離れたり、することができるようになってたと思ってた。

数々の失敗を繰り返して、それでも、そういう瞬間は、いつも手遅れで、わたしはいつも自分からその職場なり居場所なりを、去らなければいけない状態だったり、その相手が血のつながった相手であろうが、絶縁する覚悟で、そうしなければ、もう自分が保てない、ぎりぎりの、限界の状態になっていて、

だけど相手側にとっては、なにいきなり突然と、きょとんとされたり、顔が???になってたり、

逆に、「裏切られた」とキレられ、ののしられ、

あるいは、「あれだけよくしてやったのに」という逆恨みから、家に内容証明郵便で怪文書を送られたり訴訟をちらつかされたり、執着されてストーキングされて関係性を修復しようとしたり、土下座して謝られたり…。

でも、その時点のわたしにとっては、ぎりぎりのところまで考えて、耐えて、がんばって、もう諦めて、終わってることにたいして、なにをされても、もう手遅れで。

これまでどれだけ丁寧に、相手を傷つけないように(相手の地雷を踏まないように、丁重に扱わないと、大変なことになると思ってしまうから、人一倍慎重に、いつも腫れ物に触るように、あなたには接していたの)、それでも波風たてずに距離をとれるように、サインをたくさんたくさん、ありとあらゆるかたちで、なんなら強い拒否を示していたのかな…ともわたしは思うのだけど。

でも、それが通じない人だったんだな、通じない人には何をしたって無駄で、というか普通の関係性のやり方じゃだめだ、ともう何度も繰り返してわかっているのに、また自分はあやまちを繰り返してしまったな、と絶望するのです。

二段落前の「相手を傷つけないように」というくだりの括弧書きを書きながら、ふと思った。

「まるで腫れ物のように扱っている」と、そう扱わなきゃいけない時点でもう、対等な関係性ではない、ケアしケアされるようないびつな関係性になっていることに。

別にわたしは支援者でもないから、ケアする義理もないだけで、いびつな関係性が、すでにもう、始まっている。

その関係性を相手から求められているという、強要されているという(といっても、そういう相手に限って、無理強いは一切していないとか、あなたの意思を尊重している、とか、あなたのことは人一倍理解しているとか言う)関係性のなかに、すでにわたしは入ってしまっている。

店長との関係は、すごく怖かった。いつからかわからないけれど、じわじわと、気づかないうちに、ほんとうにじわじわと、からめとられていったのだった。

それさえわかっているから、今回は、自分は大丈夫だ、と思って、最後のもう限界、と感じる9月初旬、わたしは休日、店長と二人で銀座の料亭のカウンターで食事をした。

前々から何度も行こう行こうと約束させられていたお店だった。

自分は8月末に資格試験があって、それどころではなかったので、「それが終わったら」と中途半端にはぐらかして、そのうち旬なタイミングが失われていくのを願っていた。

だけど毎日、仕事中や仕事後やLINEで、しつこく誘われつづけていて、いっそ誘いを一度受けて、この件を終わらせてしまったほうが楽だと、思うようになった。

試験が終わって、個人的に自分のためにもっと休日を使いたかったけれど、なかなか予定が合わないから「いったんこの話はなかったことにしましょう」と連絡するわたしに、「タイミングは作るものだよ(サングラスの顔の絵文字)」の返信がきた時には、さすがにきもくなって、この日はしょうがない、義務だとわりきって、自分からとっとと予約を入れて、早く済まそうと思った。

早く済ませられるだけなら、それだけではよかったけど、それだけではうまくいかなかった。

料亭での食事のあと、店長がほろ酔い状態で、別の店でのさらなる飲みを誘われた。

これさえ我慢したら帰れると思っていたわたしは、これ以上、店に入ったらめんどくさいことになる気がして、せめてと思い、自分から気を回して、近くのコンビニで温かいお茶を2つ買って、ギンザシックスの石段に向かって、「これ飲んだら帰りましょう」と、ぶぶ漬け的な感じで、手渡した。

しかし、このぶぶ漬けタイムが、「もう限界って思ってもいいよね?」と感じ続けていた自分の気持ちが、そう本当に感じてもいいんだ、という確信に変わった瞬間になった。

店長は、これまで一度も妻子の存在をわたしに言わなかったのだけど(言わないということは、言いたくないのかなと思ったから、わたしは相手が自分から話してくること以外は踏み込むことはなかった)、家庭内における悩みだったり、職場でも、家庭でも居場所もなく、うまくいってないことを、わたしにえんえんと語り始めた。

わたしが、「ぶぶ漬け食うか?」的な対応を始めたから、やけくそになって話し始めて、なんとかひきとめようとしている感じを受けた。

それで、わたしは、これ以上はよくないな、と「もうお茶飲み終わったから、きょうはもう帰りましょう」と、石段から立ちあがろうとしたら、「帰らないでほしい」「ずっと一緒に隣にいてほしい」とか「これからもmieちゃんは俺の癒しの存在でいてほしい」「これからも、こうやって食べたいものを俺が奢るから、いてくれるだけでいいから」「居場所のない俺を救ってほしい」などなどとすがられて、

これまでずっときもいおっさんとは思いながらも、お茶をにごしつつなんとかがまんしていたけど、あまりにもきもすぎると思ったと同時に、

ああー、と思った。この関係性は、これでタイムオーバーだな、と確信したのだった。もう遅いけど。

わたし「それは対等じゃなくて、あなたの介護やケアになってしまうから、そういう悩みは、専門的なところに言ってください。相手はわたしではない」などなどまっとうなことをわたしは言ったけど、店長は「mieちゃんじゃなきゃいやだ」とか「mieちゃんしか俺のことをわかってくれない」とか、「だからいくらでも食べたいものを奢るから」と言われて、地べたにくっついて離れなくなってしまった。

わたしはほんとにいよいよ目が覚めて、こんなきもいおっさんをなぜ癒すために、一緒にたべたくもない食事をしなければいけないのだろう、とフラットに思えるようになってきた。

同時に、またわたしは、関係性というものにおいて、また間違ったことをして、人をこんなふうに、だめにしてしまったんだあな、と。

とても落ち込んだし、そういう関係性はいびつであり、ケアを強いる相手に負担を強いることにもなるのに、それを強いているにもかかわらず、その加害性に気づかない、これまでごまんといたそういうわたしを苦しめたやつらのなかのひとりである、その相手への怒りや、また自分がそうやってないがしろにされて、ケアする役をさせられてしまったこと、ほんとうの自分がかき消されてしまったことへの悲しさや無力感や、もう初めてではないけれど、深く深く感じた。

だから、この手の人との関係性になったら、わたしは、誰にも相談できないし、話せなくなってしまうのだな、とも思った。

関係性だから、そのことを説明しても、人は、ただ、関係性のあいだ、ふたりのあいだで起きたことと片付けられて終わりだし、

ほんとうは、早く、誰かに、助けて、と思っているし、けっこう「きもくて悩んでる」なんて愚痴もしょっちゅうこぼしたりもしているけど、それでも、なぜか、どんどん一対一の閉鎖的で密室的な関係性の泥沼にはまっていくかんじで、ますます息苦しくなっていく。

夫にも不貞をはたらいたと誤解され、その誤解をとくのは大変だったし、でも、行くずっと前から、日頃からきもいおっさん呼ばわりもしている相手と、いやだいやだ言いながら食べたくもないのに食べにいくなんて、やっぱりどうかしていると思われてしまうし、いまだに誤解はとけていない。

夫からは「台風のときに、あれだけ危ないと自分でもわかっている田んぼを見に行って流されてしまった自業自得な人のようにしか見えない」と、あのときのことをずっと言われ続けている。

その翌日、本部のマネージャーに、ただ一言「辞める」と電話した。

だけど、一緒に仕事をしたことがあるマネージャーは、え?急になんで、と聞いてきて、経緯の報告を求められてしまった。

わたしは、辞めることには変わらないという意思を添えて、経緯を書いて提出した。

それを見た、もっと上のゼネラルマネージャーが、わたしに謝罪に来ると同時に、「経緯を聞いた以上は、会社として店長とわたしの双方からさらに調査を進める」と言い始めた。

調査結果がわかるまで、わたしは系列店に異動してほしい、と言われた。

わたしは、「もう思い出したくないし、蒸し返したくもないから、辞めることとひきかえに、調査はもうこれ以上、やめてください」と、そう言わざるを得なかった。

そうなりたくないから、なにも言わずに去ることを決めたのだから。

伝えたくもないし伝えてもなんのメリットもおよぼさない経緯を伝えたばかりに、調査をされること、自分が異動してまた新しくなにもかも構築しなければいけない負担が強いられることも理不尽だし、関係性においておきたことを立証することなど、たとえ会話を全部録音していたとしても、それを会社としてどう判断するかは困難であることは分かりきっていたし、なぜ、なんのために会社に協力しなければいけないのか…あらゆることにおける心理的負担やめんどくささのほうがはるかにまさった。

会社は、最後の最後には「わかりました、あなたの意思を尊重します」と言って、結局また、わたしが辞めて、その場を去ることとなった。

だから言っても無駄だから、なにも言わずにただ去ることにしたんだろうよと。

わたしはただただ、このやり場のない、自分のケアラー体質みたいなのをのろった。

自分は職場を奪われた、そんな理由で奪われる必要なんてない、と思う人もいるだろう。

だけど、関係性のなかでおきたことについて、一方的に被害者みたく奪われたとは思い切れない、なぜその間、自分がなにもすることができなかったんだろう、自分でその関係性を変えることができなかったのだろう、ほかにもたくさんスタッフがいるのに、なぜわたしだけこんな関係性になってしまったんだろう…とか思うと、やはり、個人的な問題にすぎないのかな、自分のせいなのかな、と思うのだ。

関係性においてどんなことがおきたって、会社や第三者にそれを話したところで、二次被害三次被害やフラッシュバックを起こして本人を苦しめたところで、まったく割にあわない。

「店長は、そんなつもりはなかったと言っている」「そんなことを言ったおぼえがないと言っている」「親しみを感じて誘うくらいは、会社としてはまったく問題ないと思っている」「だからあなたの認識とは食い違っている」…

ぜんぶお前がおかしいーー。そんなスタート地点から始まる調査を強いるのだから、「もうお願いだから、辞めることとひきかえに、調査はやめてください」と言わざるをえなくなる。

去るほうがずっと楽だ。もちろんずっと悔しさは消えないけれど。

けっきょくは、ケアを強いられたほうが、去るという、理不尽な仕組み。

店長はこれまで、わたしにさんざん、その会社の愚痴などをわたしに聞かせて、マネージャーやゼネラルマネージャーや会社の上層部の人間の社畜ぶりを忌み嫌い、わたしを散々に吐け口に利用して、実現不可能な独立計画を聞かせ、ここに書ききれないほどのたくさんの時間を、わたしを「癒しだ」といって公衆便所みたいに利してきたけど、けっきょく最後は社畜で、そこで変わらず店長を続けている。

きっとまた、わたしに変わる新たな「ケアラー」の女性スタッフを、自分から選り好みしながら探していくのだろうけど、その会社が、結局はそうやってケアラーを得てでも、長時間労働ブラック労働の飲食店の雇われ店長というブラックな役回りを引き受けてくれる小羊が辞めずにいてくれるほうがメリットがあり、それならケアラーをすげ替えることくらい痛くも痒くもないという判断したのだから、そういう会社はそういう方針でやることは、わたしはなにも言わない。

ケアだったり、いびつな関係性を強いる側は、ずっとその場所を失わなくて。

社畜を忌み嫌う人間ほど、結局は、いちばん社畜で、なんなら、偽善者のようにふるまっていて、その場所や立場を失いたくなく、加害性に気づかなくて。あきらかに社畜社畜しているほうが、誠意がある。

長時間労働をして、自分のアイデンティティがそこにずぶずぶにある人に限って、そのいびつさを省みる努力もせずに、そのずぶずぶに誰かを巻き込んでもいいと平気で思っていて、

家族だったりも、そうやって距離が近くなればなるほど、ずうずうしい面がじわじわと見えてくる人っているし。

そういう人ほど、なぜかわからないけれど、わたしは腫れ物みたいに見えてしまって、不自然にそれを忖度してしまい、結果、相手がどんどん、自分が苦しくなる方向の人間になっていくのが、

その関係性を自分が受け入れているわけではないのに、受け入れていると思わされてしまうのが、どうしたらほんとうに断ち切れるのか、わからないままだ。


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