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体験を共有しませんか?~演劇と日常生活におけるライブ感覚

こんばんわ。
深夜ガタンゴトンWEBディレクターの高橋朋矢です。
深夜ガタンゴトンマガジン本記事、初回始めます!
寝る前に少しの時間だけお付き合いくださいませ。


ライブ感覚とは?
近頃、コロナウイルスの影響で、有名アーティストのライブ、スポーツの試合などが軒並み活動自粛を発表していますね。こんな大変な時に、演劇活動におけるライブ感覚について、記事を書こうと決めたのにはもちろんワケがあります。大変な時だからこそ、役者・スタッフ・観客が同じ時間と同じ場所を共有する意味が逆に浮彫りになるんじゃないかっていうアイディアがふと頭に浮かんだからです。はじめに伝えておきたいのは、僕はライブ感覚の正体について順序だてて説明することはできません。しかもその正体についてもわかってません。
「嘘!?なんでじゃあ記事書いたの?」と思った方、まだ読むのを止めないでくださいね。
この記事では僕が演劇をしていた頃(18~22 歳の大学生だった期間)とその後社会人になってからの体験を断片的に書きます。それを読んで皆様も忙しい日常生活の中でふと立ち止まってもらい、もしよかったら、その体験を共有できないかなと思ってるんです。

今思い返すと・・・
舞台の幕が上がる30分前。
役者はそれぞれ、楽屋で自分にとってのリラックス法を持っている。
僕の場合、楽屋裏いっぱいに敷き詰められた桟敷(即席でこしらえた畳)の上で、ガラケーに入れたお気に入りの J-POP を聞きながら、自分の呼吸にただただ耳を傾けることだった。
吐く息と吸う息が不規則に繰り返される。体の内側の筋肉の動きを感じる。吐く息が短いので、長く空気を吐くようにする。天井を眺めてみた。蛍光灯がおぼろげに浮かんでいる。換気扇の音と他の役者のひそひそ話が耳に届く。そこでいつものおまじないをかける。
「ただ、ここにいるだけでいいんだ」
僕は、同じ時間、一緒の場所にいるだけで、人間は影響を与え合うものだということを信じていた。
だから、舞台上では特別なことをするというよりも、自然体でいることを一番に考えていた。
大学時代に入っていた演劇サークルの定期公演での記憶だ。舞台の上にいるときは、ちゃんとした人間でいられる気がした。

舞台だけで使える超能力
僕は大学時代、演劇サークルに所属していて、いくつかのアマチュア演劇に関わっていた。
学校の中と外で、一番多く公演を打った年で年間 8 本ぐらいになる。もちろん、観客は知り合いばかりだったけど。僕はかなり緊張しいなので、観客の前でただ自然に立って、セリフを話しているだけで、体の奥の方に溜まってとれない、大きな石のかたまりがあるような気がしてた。そして、ちょっとでも気を抜くと、心と体がバラバラにあっちこちに吹き飛んでっちゃうんじゃないかというスプラッター映画のような妄想まで心に浮かんでいた。そうなったら、観客からしたら、衝撃の瞬間だっただろう。息を長く吐いて、吸う。もう一度。吐いて、吸う。意識的にやってたことが、とうとう何も考えなくてもできるようになる。そんな経験を何度もした。舞台上で僕は自由に動けるようになった。そんな時、やっていたいたずらがある。セリフを言わない静かな時に、まるで「次は僕が話します」というようなポーズをとって、何も話さない。客席から一斉に僕に向かって注意が集まる。「あ、今みんなこっち見てる!」さすがにそんなことを考える余裕はなかったけど、観客の注意が僕に向かっているのを肌で感じる。あの時、見なくても、わかったものってなんだったんだろう。舞台で使えたあの超能力はどうして普段は使えないんだろう。

普段超能力が使えないのはどうして?
演劇にはふつう、セリフがあって、一人が話したら、次の人が話すというように、はっきりとしたルールがある。もちろん普段、くだらない話をしている時でも同じようなルールは存在するけど、演劇では次に起きることを前もって台本を読んで知っているからなんじゃないかと思う。
社会人になって、仕事帰りにふらっと小劇場に行き、当日券で演劇を観るのが好きだ。しっかりと稽古した作品では違うと思うけど、あまり稽古してない作品に当たると、終演後のビール代がチケット代を上回ってしまう。例えるなら、台本がそのまま、役者の上に漫画の吹き出しみたいに浮かんで見えるような感じだ。普通に会話をしているように見えない。待てよ。じゃあ、普通の会話って何だろう。セリフがあって、それとは別のものがいいバランスになっている会話のことだと思う。作品内でことばと、すること、表情、動きがバランスをとって、はじめて目の前で出来事が起こっていると、僕はやっとわかる。そこではじめて、共感的な感情が生まれる。共感は 1 人だけじゃなく観客みんなに広がっていく。

コミュニケーションとシチューの話
サラリーマンとして生きているとみんな、多かれ少なかれストレスを感じると思う。
僕はその実感を体を通して感じることが多い。
みぞおちが痛む。体がかちこちになって、体のあちこちがさびた車輪のようになる。
僕が社会人としてちゃんと生きていくには体力がいる。例えば、同僚の A さんと世間話をする。なんでもない話題の中で、彼が時々のぞかせる表情に腹が立つ。
「今こいつ、早く話を切り上げたいと思ってんだろーな」そんな気持ちが、時間とともに、全然別の出来事も一緒になって、同じ鍋の中でことこと煮込まれる。それぞれの味が混ざって、もはや分けることができない。コミュニケーションって、そんなドロドロになるまで圧力鍋で煮込んだシチューのようなものだと思う。共感・拒絶・無関心に関わらず、出会った人が僕の中になにかを残していく。それは、はじめはカタチを持っていないのに、気づいたら、体の中で一定の体積を持っている。いろんな人が入ってきて、自分も一緒になって、シチューの具になってしまう。

おわりに
今回の記事は、徒然と僕の体験について語る随筆のようなものでした。あくまで、出来事と、それについて持った感覚は僕個人の感想です。もし気が向いたら、皆さんが考えたライブ感覚について、コメントください。コメント欄でも、DM でも構いませんので、気軽にご連絡いただたらうれしいです。
以上、初回の記事配信となりました。
次回からは小劇場界への取材やインタビュー、演劇初心者に向けたお役立ち情報なども配信していきますね!!
今後、よろしくお願いします。
皆様が明日も楽しく、笑顔な一日を送れますように。
それではー、おやすみなさい。

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