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僕がそれでも走る理由(ワケ)

はじめに

「なぜ勉強しなきゃいけないのか」「なぜこんなルールに従う必要があるのか」「なぜ社会は私の味方をしてくれないのか」・・・

毎日の生活の中で理由がわからないまま、ただただ慣習や決まりだからと何も考えずに行動してしまうことは多いのではないだろうか。それらすべては答えのない問いであったり、答えを出すこと自体が苦しい問いであることが多い。

しかし、その中で自分の確固たる意志をもった選択というものがあるはずだ。私にとってその一つが「陸上競技を続けること」であった。他のSNSでも話したことのある内容だが、今日はそれについてもう少し深くお話ししたい。

陸上と私

2007年8月26日(日)。私は東京ディズニーリゾートが提携する浦安市内のホテルにいた。当時私は小学2年生。このころから毎年夏休みの終わりごろに家族で二泊三日のディズニー旅行に行っていた。3日間で陸と海の両方を行くのだから今考えても羨ましい。ディズニーでのひと時を楽しみホテルでテレビをつけると、そこに映っていたのは世界陸上競技選手権大会大阪大会(大阪世陸)男子100m決勝。これが私が初めて陸上競技と出会った瞬間だった。スタートの合図とともに強面の男たちが走り出す。黒人と白人とか国がどこであるとかそんなことには意識もせず、私はただただその10秒にも満たない一戦を見つめていた。ゴールタイムは9秒85。アメリカのタイソン・ゲイ選手が優勝した。後に大スターとなるウサイン・ボルト選手はこの日はまだ100mのメダルを手にしていない。

この日から私の陸上競技への興味は加速する。私が100mという種目にこだわるのもこの日の衝撃があまりにも大きすぎるからだ。「かっこいい」。あの時の感情はあまりにも純粋すぎて表現することができない。上の言葉でもなにか違和感を感じてしまう。小学4年生になると市内の陸上教室に行き始める。私はここで陸上人生のスタートをきった。

部活動と私

中学に入るとすぐに部活動を決める期間になった。他の部活動に入りたいという思いが現れるはずもなく、仮入部初日から陸上競技部へと足を運ぶ。競技としての陸上は私にとって憧れでもあった。

しかし最初の一年は憧れでしかなかった。一年生の4×100mRに出場する機会はあったものの、私のメイン種目は1500mであった。全中につながる地区大会・通信陸上には一年生・100mというのがある。2枠しかないそこには私は入れなかった。「お前1500mやれそうな顔してるな」今思い出しても衝撃だが、顧問の先生にそういわれ、長距離でデビューすることとなる。本当に出たかった種目ではないがユニホームが着れるならと必死で練習した。一年生としては比較的タイムはいい方にまで成長することができた。

一年生の冬、先生は私を長距離を専門とするように誘う。しかし私は短距離への思いを捨てることはできなかった。「3月のシーズン最初の記録会で○○君(当時同期で二番目)に勝ちます。それまでは短距離でやらせてください。そこでダメだったら長距離で全中を目指します。」と先生に伝えた。当時私は100mのタイムでは同期の中では3番目であったが、その差は大きいと思っていた。しかし今短距離を続けているということは、3月の試合では有言実行を果たしたわけだ。憧れの短距離選手にやっとなることができた。

ここからはとても話が長くなるため(ここまでも長かったが・・・)私の歴史をピックアップしていく。詳しい話はまたいつの日か書くことにしよう。

中学二年、先輩が引退すると部長に選ばれる。その後市の新人戦で入賞し部内では一番手となった。三年になるとすぐに11秒台が出た。当時市内では11秒台は少なかったため私としては快挙であった。市内の選手権大会で100mで優勝し生まれてはじめて優勝を味わう。県大会では手も足も出なかったが、いい仲間、いい先生、いいコーチのおかげで最高の中学陸上生活を過ごした。なのでこの方々に恩返しをしたいと高校の志望先を市内の学校に変更する。地元で競技をしていれば練習や試合会場で自分の走りを見てもらえる。高校に行ってもコーチには同じように指導していただきたかった。

私は公立高校には不合格であった。併願として受けていた地元の私立高校に行くこととなる。そこは全国屈指の強豪校。それでも陸上を続けたいという気持ちは変わらなかった。地元を拠点に練習できることに変わりはない。強豪校だが必死についていって頑張ろう。そう決意する。入学前の準備登校の日に担任の先生に陸上部の顧問の先生を教えてもらい会いに行った。「陸上部に入りたいです。一般での入部ですが入れていただけませんか。」初めての直談判だった。私のイメージでは強豪のチームには推薦で入部する選手ばかりで私のような所詮市でしか勝てないような選手は入れてもらえないのではないのかと思っていた。「本気でやるのか。」そう先生は言った。「はい。」即答であった。

高校時代は波乱万丈の三年間だった。高校時代は別の記事で書くことにする。一般で入部した私は部長になって卒業した。その過程を書く日を楽しみにしていただけるとありがたい。

私がそれでも走る理由(ワケ)

やっと本題に入る。ここまで読んでくださった方には感謝の気持ちしかない。

簡単に書くと私は「家族のために走っている」

中学から今まで、何試合出たかわからない。陸上競技にはいわゆる公式戦のほかに記録会という勝敗の関係ない試合もある。そういったレースを繰り返す中で標準記録を突破したり、ラウンドを進んで行ったりする。一日で何種目も走ることもある。しかしそういった時間を私と同じように過ごした人がいる。父である。父は私が出る試合は毎回見に来てくれた。そしていつもビデオをとっていた。地元だけでなく県内のどの競技場にも来てくれた。高校時代は関東大会にまで来てくれた。私が部長として帯同したインターハイには私が出場しないにもかかわらず、山形まで来てくれた。それくらい私と私のチームを応援してくれた。母も毎日の食事に気を配ってくれ、試合前の一週間は当日最高のパフォーマンスが出せるように献立を考えてくれた。家族のサポートはとても厚かった。

父のパソコンの中には私の高校までのレース映像はほぼすべて入っている。私だけではなく私のチームメイトのレースの映像まで網羅してある。レース映像が残っていることのありがたさは競技者が一番わかっている。関東大会や全国大会などの大きな大会ではYoutubeなどで見つけることができるが、地区大会や記録会の映像などはネットのどこを見ても見つからない。レース後に即フィードバックできるようにスタンバイしていてくれたことは競技者として本当にありがたかった。父はそれだけでなく中学からすべての記録をExcelでまとめてくれていた。僕の記録がどのように伸びてきたのか、そのファイルを覗けば一目瞭然だった。今そのファイルは私が引継ぎ、研究に活用している。

大学に入ると私は神奈川を離れて競技している。そのため学内の記録会などにはなかなか来られない。しかし父はいつも私のことを気にかけてくれていた。いつ試合があるのか、状態はどうなのか、父からのLINEにはそんなことばかりだった。そして誰よりも私が10秒台、21秒台で走ることを信じてくれていた。

大学二年の頃、一度だけ両親が学内の記録会に来てくれた。シーズン最初に怪我をした私にとってそのレースが復帰レースだった。全力では走らない。ポイントだけを絞ってレースにでた。全力疾走できないことに悔しさはあったが、それよりも家族の前で走れることがとてもうれしかった。母に関しては私のレースを生で見ることは初めてだった。今まで忙しかったためビデオだけでしか見たことがなかったのだ。それから一か月後、私は神奈川県選手権に200mで出場する。復帰後初の大会で不安も正直あった。しかしスタンドでは両親がみてくれていた。そのことが一番うれしかった。200mで21秒台で走ることは悲願であった。それまでの自己ベストは22.12。この大会でベストを出せるようにピークを合わせてきた。神奈川の200mはとてもレベルが高い。準決勝に進むことも私にとっては一苦労だ。それに加えて私はまだ復帰後全力疾走のレースを経験していない。一発勝負で挑む。

予選のメンバーを見てもタイムを出さないと準決勝には進めないことが分かっていた。出し惜しみせず全力を尽くす覚悟ができていた。22.09の三着。ベストは出た、21秒には届かなかった。しかしタイムで準決勝に進むことができた、自身二年ぶりの準決勝だった。準決勝に進むとアナウンスで名前が呼ばれる。それにこたえるように手をあげ礼をする。私は個人の名前でアナウンスされたことがほとんどない。両親がみている場所に向かって礼をした。「見ていてくれ」と「ありがとう」の二つの思いがこもっていた。結果は七着、惨敗だった。しかしタイムが出ると、21.99。両親の前で目標を達成した。父はとても喜んでくれた。ただそれを隠すように「まだ行けるな」とそう言った。

家族は私の陸上生活にかなりの投資をしてくれた。お金や時間、どれくらいかかったことか私には想像ができない。今も私は決して強い選手ではない。高校も大学も推薦で入部したわけではない。ただただ陸上競技に憧れて、100mにあこがれてここまでやってきた。中学時代に一緒やっていた仲間たちで高校でも続けた人は少ない。そのメンバーは今はもう誰も続けていない。それでも私は陸上を辞める選択は取れなかった。

私が走ることで喜んでくれる人たちがいる。私が走ることを応援してくれている人がいる。それが「家族」だった。私はいまだ親孝行というものができていないようにも思う。私がいまできる親孝行は走る姿を見せ続けることだと思う。

私は中途半端なまま陸上競技を離れることはできない。それは裏切りと同義であるから。ありがとうを伝える。そのために私はグラウンドを走り続ける。

最後に

陸上競技が一番のスポーツだといいたいわけではない。私はたまたま陸上競技に出会って、それに惹かれていった。だから私は陸上選手を応援している。そして次世代に伝えていきたいと思っている。近年陸上競技の短距離種目を中心に盛り上がりを見せている。より多くの人に陸上競技の魅力を知ってもらいたい。そして来年へ延期になった東京五輪ではさらなる盛り上がりがあることを私は信じている。

陸上競技は個人競技だ。きっとそれは間違いではない。スタートラインに立つときはいつも一人で戦う。ライバルとそして己に一対一で戦うのだ。しかしスタートラインに立つその姿の後ろにはその人を応援する人たちの姿がみえる。それを感じたとき、今周りにいる人たちがいかに大切な人たちなのかを気づかされる。私を大きく成長させ、感謝の気持ちを教えてくれた陸上競技を、私は愛している。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

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