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古典『御伽百物語』其の参「妖精な翁たち」

「御伽百物語」の詳細については↓をご覧ください。
現代語訳で楽しむ『御伽百物語』前口上|トミオ|note

 注釈を多く必要とするややペダンティックな説話ですが、映像を想像すると「かわいいようなかわいくないような」と笑ってしまいました。編著者の藤川雅恵さんが『御伽百物語(三弥井書店)』のなかで、ラヴェルのピアノ小曲集『妖精の園』が不思議によく合うと書かれていたので聴いてみると、なるほど、不思議に・・・・合う気がしましたので、ご興味ある方は↓(YouTubeから適当にピックアップしています)を聴きながら読むのも一興かもしれません。


 相州そうしゅう(現在の神奈川県)鎌倉の地に御猿畠おさるはたけという山(猿畠山えんはくさん。鎌倉市と逗子市にまたがる丘陵)があり、頂上付近に六老僧の岩屋という岩窟がある。遠い昔、日蓮(一二二二~一二八二年。日蓮宗の開祖)の弟子で六老僧と言われた六人の高弟のうち、もっとも優秀だった僧が住んでいた岩屋である。

 能州のうしゅう(今の石川県北部)総持寺そうじじ(輪島市にある曹洞宗の寺院。明治まで宗派の本山だった)の鶯囀おうでんという僧は曹洞宗徒のなかでも稀有の人で、寺の僧のだれもが崇敬し、才知にあふれた流れるがごとき弁舌を賞美し、一途に学業に打ち込む姿を慕い、評議での満場一致で後任の住職になってもらおうと計画していた。
 しかし鶯囀には放浪の旅に出たいという浮雲流水の思いがあり、この性向のため住職になることを望まず、僧たちがさまざまに勧めては褒めもてはやし、「和尚、和尚」と崇めるのに飽き飽きして、ある夜ひそかに寺を抜け出した。

 どこに行こうというあてもなく、持ってきたものといえば袈裟入れ袋に鉄鉢てつばち(僧が托鉢たくはつのとき、米や銭を受けるのに用いる鉄の器)、錫杖しゃくじょう(上部に輪のついた杖)のみだった。
 朝には托鉢し、夕には食事を乞い、あちらこちらとさまよい歩き、喉が渇けば川の水を飲み疲れれば石を枕にし(「石に枕し流れにくちすすぐ」より。自然のなかに隠遁して自由な生活を送るの意)、一つの里に三日以上逗留することもなく、待つことも急ぐこともない旅を続けた。
 あるときは都に出て市の活気に触れては感嘆の口笛を鳴らし、またあるときは大阪の方へと杖をつき、心に感じることがあれば詩歌をつくったり歌ったりしているうちに、諸国に訪れていない名所もなくなった。

 選び歩いてはいたが、こここそ座禅瞑想の修行を行う地だと思うところもなく、元禄六年(一六九三年)の今年、猿畠山に分け入り、しばらくのあいだ例の岩窟で穏やかに憩っていたところ、なんとなく心が澄むようで、憂き世(生きることの苦しいこの世の中)にはもうほかに楽しむべきこともないと思えたので、

「騒がしいところではあるが、どこもそうだったように少しのあいだのことだ、この岩屋を仮の住処としよう」

 と、衣服を脱いで夜具とし、鉄鉢を枕替わりにし、そこから見える風景や暮れゆくさまを楽しみ、詩歌をつくっていた。岩屋の周辺は大きな桐の木が多くあったが、どれも老木で地を払わんばかりに梢が垂れている。が来たことは目には見えないが風の訪れを桐の葉が落ちることで知り、もののあわれをしみじみと感じたので、

  秋立つと人は告げねど知られけり み山のすその風のけしきに

 と西行法師の歌(『山家集』)などを詠んで過ごし、岩屋のなかで夜を明かそうとしていたところ、待宵まつよい(陰暦八月十四日)の月が木々のあいだからほのかに見えはじめ、虫の声が遠近おちこちで響き合い、松を抜ける風の音をもてなしている。

「これこそ俗世の外の楽しみ、ここは無何有むかうの里(荘子の唱えた、自然のままでなんの人為もない理想郷)、朱陳しゅちん村(白居易の詩にある、中国江蘇省の村。平和のため俗世と断絶し朱氏と陳氏の二族のみで結婚を繰り返した)の民の地と言えよう」

 そのように思い巡らしていたところ、蜂のような虫の群れがどこからともなくやってきて、桐の林のあいだを飛びまわり鳴いている。

「これはどういうことだろう。日が落ち雲霧もないこのような時刻の山中に蜂が飛び交うとは。花の蜜を吸うとは聞くが、それも昼のはず」

 しばらく眺めながら耳を澄ませていると、蜂たちの立てる音が人の声のように聞こえた気がした。と、突然詩歌が聞こえてきた。

 む身こそ道はなからめ谷の戸に で入る雲をぬしとやは見ん
        
 たしか、太政大臣であった藤原宗輔むねすけ(一〇七七~一一六二年。平安時代の公卿。音楽の名手として知られる。蜂を飼うことを好み、蜂飼大臣はちかいのおとどの異名をもつ)という人は多くの蜂を飼い、なんとか丸などと名付け、その名を呼ぶと呼ばれた蜂がちゃんとやってきて、「なんとか丸よ、あの男を刺してこい」と命じれば必ずそれに従ったとか。『十訓抄じっきんしょう』(一二五二年成立の説話集)にも蜂の話があるが、まさにその類の蜂なのだろう。

 そのように考えながらそっと近づいて目を凝らすと、一寸(約三センチ)あるかないかの大きさだが、人間の姿をしている。しかもはねがある。なんとも珍しい虫だと思い、扇を広げて杖の先にくくり付け、それでもって一匹を打ち落とし、目の粗い麻の小袋に入れると口を縛り、鉄鉢のなかに置いた。

 桐の木の周りで群れて遊ぶのだから、露が好物だろうかと考え、露のついた桐の葉を折って袋のそばに置き、座って眺めていると、虫は袋の端に寄って嘆き悲しむような声を出した。 
 するとたちまち数十匹もの人の姿をした蜂たちが飛んできて、袋の周りに集まってなかの蜂を慰めるような仕草をしている。そのあとにも多くの蜂が続き、小さな車に乗っているのや、手押し車を押してくるのもある。袋の虫を見舞う声は細く小さかったが、鶯囀が寝たふりをして耳を澄ませていると、周りの虫に伏見ふしみの翁(奈良時代の隠者。三年起きず、無言で過ごした)と呼ばれる頭目とおぼしき蜂が、囚われの蜂にこう言って慰めるのが聞こえた。

「あなたのこの不運の行き先を占って差し上げますから、あなたは形而上の物事に集中しているとよいでしょう。閻魔王の名簿からは除名されているのですから命の危険はないではありませんか。なにを嘆くことがありましょう。自然の摂理はしばしば変化するものです」

 また、増翁ましてのおきな(近江国の隠者。「まして」と言う口癖を唯一の修行とし極楽往生した)という蜂がやってきて言うには、

「このごろ白箸翁しらはしのおきな(平安時代、京都で白い箸を売っていた不思議な乞食)と博奕ばくちをして琅玕ろうかん(美しい濃緑色の宝石)の紙十(一幅=約三十センチ)を勝ち取ったが、あなたがこの難を逃れた暁には礼星子れいせいし(未詳)の言葉をそこに書いてくだされ」

 このように蜂たちはどれもこれも人間界の住人には計り知れないことを夜通し語り、空が明けると去っていった。

 鶯囀は不思議に思いながらも袋の口をほどき蜂を放してやると、自分も岩屋を出て、極楽寺(鎌倉市にある寺)の切通しを抜けて小坪こつぼ(逗子市の地名)へ向かおうとしていたところ、背丈三尺(約九十センチ)ほどの黄色い衣服を着た人が、空から下りてきた。

「わたしは三清さんせい(仙人のすむ玉清・上清・大清)からの使者、上仙じょうせんはく(第一級の仙人の長官)の任に就いている者です。名をたみ黒人くろひと(奈良時代の詩人。隠者。現存する最古の日本漢詩集『懐風藻かいふうそう』に二首の詩がある)と申します。昨夜あなたの前に集まっていたのはみな『本朝遯史ほんちょうとんし』(一六六四年刊行の伝記集)などで言い伝えられている日本の仙人たちです。災難に遭ったのは、『遊仙窟ゆせんくつ』(中国唐代に書かれた伝記小説)を読み伝えたという賀茂の翁です。あなたの情けのお陰で今再び上清の天に上がることができたので、お礼を申し上げるためわたしが代わりに参りました。あなたもまた学業を修められているので、その身は仙人となり、近いうちに天に上ることでしょう」

 そう言うとたちまち消えて行方知らずとなった。
 
 そののち、鶯囀は修行を続け、諸国の名山名所を気ままに旅して回っていたがそのうちに行方知らずになったということだ。


*秋が来たことは・・・『古今和歌集』藤原敏行「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」による。
*すむ身こそ…後柏原ごかしわばら天皇(戦国時代の天皇。在位一五〇〇~一五二六年)の歌。放浪の生活への憧れを詠んだ歌。

了(御伽百物語 巻三の二『猿畠山の仙』より)

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