見出し画像

古典『御伽百物語』其の六「あの世、ありました」

「統計数理研究所」が公表しているデータによると、二〇一三年の統計では「あの世を信じる」日本人は四〇%、「どちらとも決めかねる」が十九%、「信じない」が三十三%。一方、一九五八年の統計では、「信じる」が二〇%、「どちらとも決めかねる」が十二%、「信じない」が五十九%。

権左衛門と同様わたくしも「冥界の話はただ僧たちが人を戒めるために使う常套句にすぎない」と思ってきた「浅はかな凡夫」のようです。

 洛陽らくよう下嵯峨しもさが太秦うずまさ(京都市右京区太秦)の西にほこら(神をまつる小さな社)があった。車前くるまざきの宮(現在の車折神社)というのが正式な名称だが、人々は「五道ごどう冥官みょうかん」(死者を裁く冥途の役人の意)と呼んでいた。清原頼業(一一二二~一一八九。平安末期の貴族・儒学者。車折神社の祭神)を埋葬した地ということだ。

 そのむかし、亀山天皇(鎌倉中期の天皇。在位一二五九~一二七四年)が嵐山にいらっしゃったとき、同行した関白兼平公(一二二八~一二九四年)の車を引いていた牛が、この塚(土を高く盛って築いた墓)の前で突然地に伏せて動かなくなってしまった。
 従者は奇妙なことだと思い辺りを探ってみると、草むらに丸くふっくらした石がある。石の下の土は盛り上がり、人為的に盛り上げたようなので不審に思い、まずは石を取り除けようとしたところ、持ち上がらない。形も大きさも冬瓜とうがんに似てたいして大きくもないのだが、だれも動かせない。毎年の抜き出(成績優秀者として選ばれる相撲取り)たちを呼んで持ち上げさせようとしたがやはり上がらない。
 付近の住人に石について尋ねてみると、祟りの石ということだった。塚に埋められている人物を知った帝たちはここに祠を築き、神と崇めた。以来人はここを車前の宮と呼ぶようになったということだ。
 月日が流れ、次第にこのあたりに民家が多く建ち並び、嵯峨丸太(嵯峨で陸揚げされた丹波産の丸太)や炭などを売り買いする地となり、いつしか車前の名は忘れられ、祠は五本の榎のあいだで荒廃し、民家の裏に埋もれてしまった。

 元禄に改元した年(一六八八年)のこと、祠の前に代々炭を商いとする家があり、権左衛門ごんざえもんという生まれつき考えの浅い者が住んでいた。この年の八月十四日の夜は、例年以上にくっきりと輝く月がのぼり、雲一つない空を何千里先までも照らしていたので、風流心のないこの男でさえ心を動かされ、縁側の障子を少しだけ開け、木の枕に頭を載せて横になり、煎茶で口を潤しながら、

日の夜を今夜にできないものかと語った先人に見せたらなんと言うだろうか」

 などと独り言を言って詩歌を口ずさみ、なにをするでもなく時を過ごしていた。
 月がだんだんと中空に上がりかけたころ、嗅いだことのないよい香がどこからともなく漂ってきた。不思議なことだと思い周囲に目を凝らしていると、例の祠の前の地面がにわかに動きだし、むくむくと高くなっていく。土豹もぐらかなにかかと思っていると、ふいに地の底から公家風の正装をした男が現れ出て、大きな声で言った。

「なんとも美しい月景色ではないか」

 権左衛門は肝を潰し、部屋の片隅に這って身を隠した。障子に小さな穴を開けて覗いていると、男は庭をゆっくり歩きながら詩歌などを口ずさんでいる。年は四十程度、着物の裾のさばき方といい立居振舞といい、いかにも落ち着いた気品がある。
 しばらくすると内裏女房(天皇に仕える身分の高い女性使用人)のような女が十数人、女の子供や召使とおぼしき者を多数連れて、表口から庭に入ってきた。
 腰元こしもと(貴族に仕え雑用をする女性)を呼び、美しい模様の毛氈もうせん(獣毛でつくった敷物用毛織物)やむしろを整えさせ、みなしとやかに並んで座り、酒肴を並べ歌い戯れている。
 そのような光景はこのあたりで見ることのないものだったので、権左衛門は不思議であり恐ろしくもあったが、

「これはきっとこのあたりで長く生きている狐か狸がおれをたぶらかそうとしているのだろう」

 と思い、ひとつ驚かせてやろうと手元の木枕を取り庭に投げ入れると、公家は少し顔を振り向かせ、怒りを込めて言った。

「美しく輝く月と静かな夜をで楽しんでいたものを、興を削がれるとは腹立たしい。だれかおらぬか」

 すると地の底から一丈(約三メートル)ほどもある鬼が二匹、飛び出てきた。そのさまは言葉にできないほど恐ろしい。公家は権左衛門が隠れているほうを指さし、

「冥途にいるあの者の親兄弟を連れてまいれ」

 すると鬼たちはかしこまった様子で地に消え、しばらくして何匹もの鬼に囲まれて公家の前に現れたのは、疑いようもなくこの二十数年のあいだに死んだ親と兄たちである。みな鉄の首枷くびかせのために苦しそうに息を詰まらせ、鉄の鎖で手首をつながれている。
 その悲惨なさまを見た権左衛門は目がくらみ心は乱れ、悲しみのあまりつい声に出して、「これはいったいどういうことだ」と、むせかえり忍び泣いた。公家は怒りのこもった声で、

「わたしが地上に出て月を楽しんでいたところ、あの愚か者に興を醒まされた。おまえたちはなにを教えこのような無礼を戒めようとしてきたのだ」

 すると父母は額を地につけて、

娑婆しゃば(この世)と冥途は遥かに隔たっておりまして、人間と死霊は異なる道におりますため、わたくしどもは常に夢にも現実にも現れあれこれと教え諭してきたのではございますが、それでもこのような悪事を働き罪を親のしかばねに背負わせます。どうかなにとぞお慈悲を垂れてくださいませ」

 そう涙を流して弁明し心から苦悩している様子だったので公家も納得し、全員を冥途に返した。それから鬼たちに、

「あの愚か者を捕らえてこい」

 と命じたので、権左衛門はとうとう自分の番だと知り、

「どうしたらいいんだ。逃げたところで無駄だろう」

 と悲しく思った。手足は震え膝は笑い、身体を固くして息を吞み、冷や汗を流しながらかがんでいると、たがうことなく二匹の鬼が権左衛門の隠れている軒先へ飛ぶようにやってきて、赤い手毬てまりのようなものを投げたかと思うと、それを権左衛門の口のなかに打ち込んだ。それは熱せられた細い鉄の縄とつながっていて、権左衛門は魚のように庭へ釣り出されてしまい、鬼たちに鉄の杖でさんざんに打たれた。そのたとえようもない苦痛に権左衛門は叫び声すら上げられず、狂わんばかりに悶絶した。

 騒ぎを聞き、駆けつけてきた妻子や親類はその様子を見て慌てふためき泣き叫んだ。権左衛門はそれを見ていよいよ自分の誤りと犯した罪を悔い、ただひたすら手を合わせ額を地面に押し当て、血の涙を流して詫びた。すると居並んでいた女たちは公家に許しを求めて、

「この愚かな者は大変な悪行を犯しましたが、浅はかな凡夫でございますため五道の冥官の名すら知りません。冥界の話はただ僧たちが人を戒めるために使う常套句にすぎないと思ってきたための過ちですので、知ってのうえでの罪よりは軽いものでございましょう。なにとぞ許してやってくださいまし」

 とみな口をそろえてなだめるので、公家もしだいに心が和らいでいった様子で、おもむろに立ち上がると女たちを引き連れ、表の入口から去っていった。

 権左衛門はその後、毒気に当たったような病を患ったが、五、六日過ぎるとすっかり回復した。

 その後、車前の宮の噂は自然と広まり京中の人に知られるところとなった。元禄のはじめ頃から人々が五道の冥官と崇め詣でるようになったのも、このためである。

*明日の夜を・・・『万葉集』一〇七六「明日のよい照らむ月夜は片寄りに今宵に寄りて夜長よながからなむ(明日の夜に照る月が今夜に寄ってきてこの美しい月夜が長くあってほしいものだ)」を指すか。

(御伽百物語 巻三の五『五道の冥官』より)

『御伽百物語』についての概要は↓よりどうぞ。
現代語訳で楽しむ日本古典『御伽百物語』前口上|トミオ|note

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?