のら多言語話者は何が分かる?(10) のらねこ、学んだ外国語を活かすときがない
日本国内にいるかぎり、外国語を使う機会なんて絶対ないですよね。
そんなふうに思うと、勉強しててちょっと悲しくなります。
こんにちは! 記事を読んでくれてありがとう!
僕は TOMCAT HEART の中島といいます。
エンジニアの仕事をはじめて25年。
その間にいろいろな人達を見てきて、その中には発達障害・学習障害・その他の障害を抱えて、悩んで生きてる人がやっぱいるんですよね。
ただあるとき、そういう類の人達の大部分は、実は “目標管理スキルがなさすぎて、後天的に発達障害になっている” ことが多く、本当の意味での発達障害じゃない人が大部分だと気づいたのです。
僕は、そういうちょっとがんばれば楽に生きられる人達もちゃんと救うべく、個人・企業両用向け目標管理アプリ Project Sylphius を開発しました。
また当コラム のらねこに何ができる? についても、目標管理のノウハウを世間に広めるため、僕が自分で計画して自分で達成してきた様々なことを、なるだけ面白い文章に書き連ねていく趣旨になっております。
さて。
割と長かった “のら多言語話者は何が分かる?” も今回で最終回です。
英語・イタリア語・フランス語・スペイン語・トルコ語などなど様々な言語に手を出して、そんでその大部分がちゃんと今でも続いてる僕が、なぜそんなにいろんな勉強を続けていられるのか、その理由になる部分を連載してきました。
今回はその総まとめということで、覚えたことはそれっきりにするんじゃなくて、活かしていくことが大切だという話をしたいと思います。
1. 学習の目的は何かに活かすため
今回の外国語学習に限らず、また意識的・無意識的も問わなければ、皆さん毎日いろんなことを学ばれていると思います。
仕事で上司に指摘を受けるのも学びだし、ニュースの記事を読むのだって学びだし、あるいは「今回新発売のラーメン○○がクソまずい」と実感するとか、ゲームで魔王を倒すため経験値稼ぎにいそしむといった行為も、心理学的には列記とした “学習” の一分類です。
そういう意味では、人間は起きている時間の大部分を学習に費やしているといえます。
なんのためにそんなに一生懸命学習するの?
決まってますね。
学習することによって、それを何かに活かすためです。
上司からの指摘は次から失敗しないため、ニュースの記事は仕事や雑談に活かすため、ラーメンは次から美味しいものを選ぶためだし、経験値稼ぎは魔王を倒して達成感を得るためです。
ですので、外国語を懸命に学んでいる皆さんも(もしくはそれ以外の何かをがんばっている皆さんも)、その目的はただ1つ。
何かに活かすためです。
もちろん中には「いやいや、外国語は趣味だから別に何かに活かすとかないよ」って人はいるかもしれません。
でもそれは自分自身を喜ばすことに活かしてるだけあって、活かす予定がそもそも物理的にないって、ありえないですよね。
ですから外国語の学習をしたのであれば、それを実際に活かしてみることが最高の学習だといえるわけです。
かつ、言葉とは本質的に誰かとコミュニケーションをとるための道具ですから、だから外国語を学習したのであれば、それを実際にコミュニケーションに活かしてみるのが最良です。
でも誰と??
外国人の友達とか別にいないんだけど。。。
前回のお尻付近で外国人の会話相手の探し方なんて紹介もしましたが、まだまだこれからのタイミングでいきなりというのもハードル高そうです。
じゃあどうする?
大丈夫。
驚くべきことに、言語によるコミュニケーションとは、ときに相手がいなくても構わないのです。
2. 最低限のミニマムコミュニケーション“ジャーナリング”
実際のところ、相手がいなくても成立するコミュニケーションは、世の中に実はけっこういっぱいあるものです。
新聞記事を読むのは記者との対話といえるし、映画を見たり小説を読んだりするのも登場人物や作者との対話。その意味では、SNSの書きこみに返事をせずただ読むだけでも対話です。
あくまで一方通行ではありますが、コミュニケーションというのは本質的に “感情の伝達” を行うための手段ですから、だから文章の書き手の感情がこちらに伝わってきさえすれば、それはもうコミュニケーションたりうるのです。
とすると同じ理屈で、日記やメモを書くのも対話ですよね。
過去の自分と未来の自分との対話です。
でもこれらにしても、正直言うと毎日やるにはちびっとばかしハードル高いですよね。
日記を毎日書く?
そんなこと最初からできたら、目標管理で悩んだりしません!
また、メモを外国語で書くなんて学習法もあるようですが、これも難しそうです。
メモというのは、読み返したときに意味が分かるように書かないといけないもので、それができる程度の語学力は必要です。
間違ってしまうとミスに繋がりかねません。
なので外国語を学習し始めたばっかりの段階では、もっと易しくて、ミスを繰り返しても問題にならなくて、誰にも迷惑をかけない。
そんなスーパーライトなコミュニケーション方法が必要です。
で、それが何かというと、見出しにある “ジャーナリング” ってわけ。
ジャーナリングというのはね、その日1日学んだことを要約してノートに書くことです。
しかも他の学習方法とは違い、決まったルールもありません。
フォーマットもないし、量の基準もありません。
決まっているルールは2つだけ。
その日の学習で感じたことを最低1文なにか書く
つらくない範囲内でなるだけ毎日書く
この2つ。
フォーマットがないと何も書けなくなっちゃう系の人は、そのフォーマットですら自分勝手に作ってしまっていいです。
大事なのは、“とにかく何か書く” ということだけ、ってわけです。
3. ジャーナリングってどれくらい書くもの? 効果は?
文章量にも決まりはありません。
ですから本当に一言、その日の学習終了時点でふと思ったことを書けばもう十分。
学んだその言語で書く必要すらありません。
ちなみに、ネットで "ジャーナリング サンプル" で検索すると、ノート1ページくらいに何かをビッシリ書きなぐっているのがヒットしますが、どれもこれもジャーナリングとしては多すぎます。
別に多くて悪いわけじゃないんだけど、そもそもジャーナリングはその日学んだことをその日のうちにアウトプットするために書くものです。
なので、ノート1ページ分も書くことがあるとなると、それだけの学びが毎日毎日発生し続けていることになってしまいます。
もし本当にそんなにたくさん勉強してるのなら、1日の学習量がちょっと多すぎるといわざるをえません。
なぜなら、学習はたくさんやることよりも毎日やることの方が大事だからです。
ですから、ジャーナリングは最低1文で十分だし、それ以上は書くことがあった日だけでいいんです。
たとえばこんな感じ。
これくらいでOK。
あまりにも量が少ないと、「そんなことで本当に効果あるの???」と思ってしまう人はいるかもしれません。
でもこれは「ある」としか答えようがありません。
ジャーナリングは、たしかヨーロッパで18世紀頃に発明された学習法で、それから莫大な数の人々が取り組んできたものです。
(たしか18世紀じゃなかったかなー??? 細かいことは忘れたけど、発明時期がかなり古いことは確かです)
それから数百年間、実際に取り組んで効果を実感したごく少数の人達だけで言い伝えられてきたにもかかわらず、その文化が廃れずに残っているのですから、それこそが効果が確かにある証拠といえるでしょう。
本当に一言書くだけ!
それだけでいいんです。
ただし、毎日やること。
ちなみに、そんな一言だけ ちんみり とかどこに書けばいいのかってぇと、僕の作ったアプリ Project Sylphius に書いてもらうのが超おすすめです!
別に新しいノートを1冊用意してもらっても全然いいんですけど、それだとノート代100円もったいないし。
ジャーナリング目的で使うだけなら、シルフィウスは完全無料です!
外国語に限らず、どんな挑戦に対しても1日最低1回ジャーナリングをする仕組みになっていて、それを後日見返して反省したりもできます。
また、AIが文章の感情を読み取って、その波をグラフ化してくれる機能なんかもあります。
使ってみてくださいね!
Project Sylphius
4. 大事なのは結局
今回の話は結局のところ、外国語を効率よく学ぶコツは、実際に使ってみることって、つまりはそれだけのことなんですよね。
だから外国人の友達ができるのを待つとか、現地の人と同じレベルで映画を楽しむとか、そういう悠長なことをやるよりは、なるだけ毎日使う方がいいってことなわけ。
それプラス、毎日やるからには日に日に辛くならないよう、最低限度にしようねってこと。
で、それで毎日のアウトプット量があまりに少なすぎて実力が伸び悩んだと仮にしても、長く続けていればちゃんと日の目は見ますよ。
YouTube が見れるとか、町中で見かける外国語がちゃんと読めるとか、何らかの形で成果は絶対出ます。
少なくとも、本当に全く全然なんの成果もないし全部無駄だった、とかありえないですから。
はい、というわけで全10回続きました外国語学習の回もこれで終わりです。
実際にご自身で試せるタスクリストをこちらにもまとめていますので、挑戦してみてください。
https://project.sylphius.com/lp/?template=言語学習
新しいことが分かるようになるって、きっと楽しいよ。
てなわけで次回からは、新シリーズ “のら努力家は日本語わかる?” をお送りします。
日本語には、人を狂わせるレベルの解釈間違い、ってものがあります。
たとえば正しいとかね。
以前、“正しい家族” という言葉を間違って捉えちゃってて、そのせいで人生そのものをおかしくしちゃった人が実際いました。
他にも “常識” “愛” とか、それから “努力” とかとかね。
解釈を間違えただけで人生が大きく狂う言葉って、実はけっこうあるもんなんですよ。
そういうの、どういう意味に捉えるのが本来正しいのか。
そんな感じのことを来週からやっていこうかなと思います。
ではまた。