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[暮らしっ句]茄子の花3[俳句鑑賞]

人生編

 数うれば 良き事もあり 茄子の花  斉藤裕子

 イヤなことに焦点を当てれば、毎日、嫌なことだらけ。そりゃあ、つらい時期もありますが、そういう時こそ、数少ない「いいこと」をしっかりキャッチしないともったいない。
 ただ、言葉で云われても簡単には変われません。この歌のいいところは、実感がにじみ出ているところ。生まれつきの楽天家なら、そういう気づきはないわけで、そこが他人にも響く。
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 何ごとも らしくありたし 茄子の花  市川玲子

「らしく」といえば「自分らしく」が思い浮かぶ昨今ですが、作者の思いは違います。「らしく」は複数形でたぶん多い目。「母親らしく」「妻らしく」「大人らしく」「女らしく」「社員らしく」「○○町民らしく」、あるいは「俳人らしく」「アマチュア○○らしく」等々。そうなると必然的に「自分らしく」の割合は小さくなります。
「自分らしく」の単純の否定だと「自己犠牲=昔」に逆戻りするわけですが、それは意図されていません。そうじゃなく、いわば過剰な「自分らしく」からの脱却。
「○○らしく」は「自分らしく」に相反するものなのか? というか、「母親」「大人」「妻」「女」「中堅社員」「○○町民」などという属性を取り除いていけば「自分らしさ」が完成するのか? そんなバカな、ですよね。
 この気づきは、しかし仕事をしている者にとっては難しい。だからこそ響く。重いテーマなのに、さわやかに表現されているところが、素敵。
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 本性を持ちて咲き初む 茄子の花  中貞子

 自分の花を咲かせる… という云い方はよくなされますが、その時にイメージされるのが花屋さんの花であったり、園芸花だったりすると、まあ、うわついた方向になりがち。その点、茄子の花は「本性を持ちて咲き初む」と作者は感じている。
「本性」は「適性」ではありませんね。重さが違います。コンサルタントやアドバイザーが口にできない言葉。考えてみれば、どんなに正論であろうと、他人のアドバイスが軽いというのはそのあたりに原因があるのかも。
自分の「本性」は自分にしかわからない。いや自分でもふだんは意識しないこと。半分、闇の世界。「やりたいこと」じゃなく「やむにやまれぬ事」。それを自覚して生きてる人は地味でも重心が低い。
 作者が云ってるのは「茄子の花はそんな花だ」ということですが、それは間接話法で、自分もそうありたいと。少しも気負わずにさらりと…。
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 あきらめは最後の手だて 茄子の花  田口禽智子

「あきらめは最後の手だて」で、思い出されたのは、苛酷な修行をされる方が懐に忍ばせる小刀。続けられなくなったらその時は自刃する、その覚悟の象徴。庶民の場合は「あきらめ」が「刀」の代わりなのかも知れません。
いよいよ、どうにもならなくなったら「あきらめる」。
 あきらめてどうなる? どうにもなりませんよ。溺れているときに、たった一枚の板きれを手放すようなもの。いわばラクになるための最後の選択。

 しかし、宗教的に云えば、神や仏にすべてを委ねることで救われる世界もあるわけです。実際、熱心な浄土真宗の信者の方たちは、絶望的な困難を喜んでおられました。「これで落ちられる」と。周囲の人も祝うんですよ。「これであんたも落ちられるなあ」と。
 でも逆に云えば、どんなに熱心な信者の方であっても、並みの暮らしが続く限りは、それを手放せない。それこそ狼や熊にでも襲われなければ、崖からは飛べません。が、誰が絶望的な苦難を望むでしょう。やはり常日頃は平穏無事を願うもの。しかし、襲われた時には感謝に変わる。それが宗教的に生きるということではないかと。

 話がそれたようですが、この作品はまさに宗教的な世界。
「落ちた時に喜べる」だけの覚悟を持って生きてこられた人の言葉。
「最後の手段を使うことなく生きてこられて良かった」ではありません。
 今の暮らしに感謝しつつ「落ちた時」の覚悟をされている。「覚悟」などと大げさな言葉を使いましたが、少しも力まずに自然体なのが、凄味。

 今回の選句は、期せずして女性ばかりとなりました。
 女性は強いとは云いますが、俳句においてもそれが証明されたかと。




出典 俳誌のサロン 歳時記 茄子の花
歳時記 茄子の花
ttp://www.haisi.com/saijiki/nasunohana.htm

※見出し画像は、生成AIによるものなので
 正確ではありません。写真は画像検索でご覧ください。


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